デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

9. 恭敬は「安全第一」の道

きょうけいはあんぜんだいいちのみち

(19)-9

 近頃流行の言葉に「敬虔」と申す熟語がある。孔夫子の所謂「恭敬[」]はこの「敬虔」と同一意義のもので軽蔑の反対である。人に対しても亦事に対しても鼻の端であしらはず、恭しく慎んで振舞ふのが是れ即ち「恭敬」である。人に対して恭敬の念が無いやうでは、事に対しても又必ずや恭敬の念を失ふやうになつてしまふものである。恭敬の念の無い人は如何しても意を一つの事に集中し得られず、注意が散漫になるものである。之に反し恭敬の念の強い人は、精神を統一することができて、意を一つに集中し得られるやうになるから、事業を経営しても失敗過失が稀である。恭敬の念に乏しい人は、事業に対しても軽るはづみをし易く、事業を軽蔑してかかるから兎角失敗過失の多いものである。人は人に対して恭敬の念を持たねばならぬものであるのみならず、又事業に対しても恭敬の念を持たねばならぬものである。
 恭敬の念の態になつて顕れたものが是れ礼式である。早い話が、一つの膳を持ち運ぶにしても、恭敬の念を以て持ち運ばなければ、兎角粗匆を致し易く、膳に載つてるお汁を滾したり、茶碗や箸の位置を乱したりするものである。礼式作法に遵ひ、恭敬の念を以て慎しやかに膳を運べば、粗匆をする事などは滅多に無い。茶の湯の式で茶碗を取扱ふ法なぞも恭敬の念を本位にしたもので、式法通りに茶碗を取扱つて居りさへすれば、之を破損する憂なぞは万々無いものである。恭敬の念を本位とせる礼式は、人に対するに当つても物を取扱ふに当つても、又事を処するに当つても、最も安全の道である。
 近頃亜米利加には「安全第一」と申す標語が流行致すそうだが、恭敬は是れ即ち安全第一の道である。恭敬の念盛んなる人には過失失敗無く、又危険も無いものである。恭敬を一概に虚偽であるなぞと稽へてはならぬ。昨今の青年子弟諸君には兎角恭敬を虚偽であるかの如く稽へて、恭敬を尽しては天真爛漫なところが無くなるなどと称して、粗暴軽卒に流れたがる通弊のある事は、大に憂ふべき現代の傾向であらうかと思はれる。恭敬は決して虚偽でない。恭敬の念は人心の真底から湧いて出る真実である。恭敬を以て人に対すれば人と親しみ得られぬかの如く想ふものもあるが、之れは至つて浅墓な卑見で、恭敬を欠いて人に親めば永い間には却つて交情を害するやうな事になる。之に反し、恭敬を以て相交ればその交情は永遠に続くものである。
 恭敬は斯く処世の上に大切のものであるから、私は子や孫などに絶えず戒めて、恭敬の念を欠かぬやうに申し聞かせて居るが、昨今一般青年子弟間の風潮が恭敬を重んぜぬやうになつてるので、児孫とても私が欲する如くに恭敬の念に富んだ人に成り得ぬのは、私の甚だ遺憾に思ふところである。然し、自慢話を致すのでは無いが、世間一般の若い者に比すれば、私の児孫は多少恭敬の念に富んでるかのやうに想はれる。

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キーワード
恭敬, 安全, 第一,
デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)