デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一

5. 家康と天海僧正

いえやすとてんかいそうじょう

(19)-5

 漢の高祖にしろ、蜀の玄徳にしろ、又宋の太祖にしろ、孰れもみな一代に傑出して帝業を起した大人物であるが、あれほどの豪い人になれば、却つて低い位置の人に下つて之に教を受けるのを恥かしいなぞとは思はぬものである。又、斯く下問を恥ぢぬから孰れも彼の如き鴻業を成し遂げ得られたのである。低い位置の者に下つて教を請へば、何だか自分の位置を引き下されたやうに感じたり、自分が意気地の無い者であるかのやうに思つたりするのは、是れみなその人物の小さい所から来る事である。我が邦の歴史上に現れた人物の中で、私の観るところでは徳川家康などが下問を恥ぢぬ人であつたやうに思はれる。
 天海僧正の事に就ては、これまで申述べたうちにも一寸御話して置いたが、家康公は天海僧正に師事したもので、果して自ら駕を枉げて天海僧正に就き教を受けたものか、それとも天海僧正を召し寄せて教を聞いたものか、その辺の事までは明かで無いが、兎に角、深く天海僧正に帰依し、何につけ彼につけ天海僧正に諮詢を致し、能くその言を聞いたものである。
 徳川家の菩提寺は世々三河の大樹寺で、その寺が浄土宗であつた関係より、公も亦浄土宗の信者となり浄土宗の授戒を受けて居つたのであるが、天海僧正に深く帰依するに至つてからは、僧正が天台宗である関係より更に天台宗の授戒を受けて天台宗に改宗しようとの念を懐き、之を天海僧正に詢つたことがある。すると、僧正は「授戒の事は宗門の大事であるから、迂濶に授けるわけには参らぬ」と申され、一たびは撥ねつけられた。然るに、公は之を聞いて「如何にも左様であらう」と、それから三年の間又宗門上の精進を励み、曩に授戒の事を申出でてから三年経つて後に漸く天海僧正より天台宗の授戒を受けるやうになつたといふ逸話が、天海僧正の伝記に載つて居る。之によつて見ても、如何に家康が己が心を虚うして天海僧正の言に聞き、その言を以て修身斉家治国平天下の道を講ずる具に供したかが知れようと思ふのである。

全文ページで読む

キーワード
徳川家康, 天海
デジタル版「実験論語処世談」(19) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.118-124
底本の記事タイトル:二二七 竜門雑誌 第三四三号 大正五年一二月 : 実験論語処世談(一九) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第343号(竜門社, 1916.12)
初出誌:『実業之世界』第13巻第21,22号(実業之世界社, 1916.10.15,11.01)