3. 小人は窮すれば濫に至る
しょうじんはきゅうすればらんにいたる
(68)-3
衛霊公問陳於孔子。孔子対曰。俎豆之事。則嘗聞之矣。軍旅之事。未之学也。明日遂行。在陳絶糧。従者病莫能興。子路慍。見曰。君子亦有窮乎。子曰。君子固窮。小人窮斯濫矣。【衛霊公第十五】
(衛の霊公陳を孔子に問ふ。孔子対へて曰く、俎豆の事は則ち嘗て之を聞けり。軍旅の事は未だ之を学ばざるなり。明日遂に行《さ》る。陳に至るまで糧を絶つ。従者病んで能く興つことなし。子路慍る。見《まみ》えて曰く、君子も亦窮する有るかと。子曰く、君子固より窮す。小人窮す、斯に濫す。)
本章は君子は窮して濫に至らないことを説いたのである。陳は軍隊の組織を言ひ、俎豆は祭器、在陳絶糧は、楚の国で孔子を聘した時、陳、蔡の大夫が之を疾《にく》み、兵を出して孔子を囲んだので、行くことが出来ず困つたことを言うたのである。(衛の霊公陳を孔子に問ふ。孔子対へて曰く、俎豆の事は則ち嘗て之を聞けり。軍旅の事は未だ之を学ばざるなり。明日遂に行《さ》る。陳に至るまで糧を絶つ。従者病んで能く興つことなし。子路慍る。見《まみ》えて曰く、君子も亦窮する有るかと。子曰く、君子固より窮す。小人窮す、斯に濫す。)
衛の霊公が、孔子に軍陣のことを問はれた。すると孔子は、俎豆を陳設することは学んだこともあるが、軍陣の事は未だ嘗て学んだことがないと言つて、其の翌日直に去つた。そして楚の国に行かうとして陳の国を過ぎるとき、陳、蔡の大夫は之を疾み、兵を出して囲んだから、糧食を得ることが出来ず、随行の者共皆飢疲れて起つことが出来なくなつた。子路は此の有様を見て少し不愉快の面持ちで、孔子に見えて、君子も窮するかと言つた。孔子は、君子は固より窮するが、如何なる艱難、困窮に陥つても身を正しくし道を守るものである。けれども小人はそれが出来ず、遂にみだらな行動に出づるものであると言つた。
衛は魯の国の隣りにある。衛公は行ひの修まらない人であり、又夫人南子も器量人ではあつたが、行儀の悪い人で、色々非難があつたので、家来の中にも優れた者も居たが、余り振はずに了つた国である。
衛公は、孔子の戦ひを好まぬことを知つて居ながら、戦ひのことを聞いたから、孔子は、衛の国は民の為に善政を布かうと云ふ考へもなく、唯自分の力を頼んで他国を虐ぐることのみを考へて居つて、言はば好戦国だと思つたから、この問ひに対して、このことは知つて居るが、そのやうな乱暴なことは知らぬと軽くあしらつた。丁度、毛織物会社に行つて紡績糸はないかと云つたから、私の処には毛糸はありますけれども、紡績はありませんと対へたと同様である。
この一行が途中で糧食を絶たれ苦しんだ時に、君子も窮するかと云ふやうなことから、子路のどんな人か、ありありと判る様に思ふ。又春秋の諸侯が如何にも好戦国民だとも頷かれるし、孔子は、君子は窮するが、小人は窮すると濫に至ると答へたなどは、孔子らしい言ひ現はし方をして居るので、この短い章句の間に二人の挙動が十分に窺はれ、又その時代も見える様である。
- デジタル版「実験論語処世談」(68) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.610-617
底本の記事タイトル:三七一 竜門雑誌 第四三三号 大正一三年一〇月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第433号(竜門社, 1924.10)
初出誌:『実業之世界』第21巻第8,9号(実業之世界社, 1924.08,09)