4. 忠恕は処世の根本
ちゅうじょはしょせいのこんぽん
(68)-4
子曰。賜也女以予為多学而識之者与。対曰。然。非与。曰。非也。予一以貫之。【衛霊公第十五】
(子曰く、賜や女《なんぢ》は予を以て多く学んで之を識る者となすかと。対へて曰く、然り、非なるかと。曰く、非なり。予一以て之を貫く。)
本章は、孔子は一の忠恕を以て万行を貫いて居ることを説いたのである。(子曰く、賜や女《なんぢ》は予を以て多く学んで之を識る者となすかと。対へて曰く、然り、非なるかと。曰く、非なり。予一以て之を貫く。)
孔子が子貢に、汝は予を以て多く学んで之れを識つた者と思つて居るかと言ふと、子貢は、さうであると思ひます、さうでないでせうかと云つた。孔子は、さうでない。予は一の忠恕によつて万事に応じて居るのであるから、多く学んで識る者でないと対へた。之れは子貢が多く学んで識ることに努めるが為に上調子になる病があつたので、学の本づく所を知らしてその病を去らんとしたのである。
事に徹底する一つのものは忠恕である。この忠恕の語は里仁篇にあつて、「吾道一以て之れを貫く。曾子曰く唯。」とあるから、曾子は孔子の言を直ぐに悟つたけれども、他の門人どもは判らぬので、何の事を言ふのであるかと曾子に問うた。曾子は、夫子の道は忠恕のみであると言つて聞かした。故に茲に言ふ一以て之れを貫くは忠恕である。
忠恕は大変に必要なものであるから、もつと丁寧に説明する必要がある。忠恕は至誠と博愛が程能く働くことによつてその効果がある。至誠がなければ忠も恕も出来ない。即ち至誠のみで博愛がないと軟みが出来ない。又、博愛のみで至誠がないと一方に偏する。人には学問も知識も必要だが忠恕がその根本にならないと之を正しく活用することが出来ない。故に人は学んだからそれでよいものでなく、之に至誠と博愛とが必要である。人は至誠と博愛とさへ有つて程よく働けば学ばんでもよいやうなものであるが、学問知識がないと事物の正邪を鑑別するに偏狭になつて、正しき判断にならぬ。学問、知識にも、至誠と博愛が必要ではないか。そしてこの至誠と博愛とが練れて行つて程よく行はれることを忠恕と云ふのである。至誠あり之に博愛があつて人に情愛を作るから、人には至誠と博愛とが必要である。之は私の考へであるが、世に処するにはこの至誠、博愛―忠恕を拡張する必要があると思ふ。
- デジタル版「実験論語処世談」(68) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.610-617
底本の記事タイトル:三七一 竜門雑誌 第四三三号 大正一三年一〇月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第433号(竜門社, 1924.10)
初出誌:『実業之世界』第21巻第8,9号(実業之世界社, 1924.08,09)