デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

20. 喪三年親の恩を追慕す

もさんねんおやのおんをついぼす

(67)-20

子張曰。書云。高宗諒陰三年不言。何謂也。子曰。何必高宗。古之人皆然。君薨。百官総己。以聴於冢宰三年。【憲問第十四】
(子張曰く。書に云ふ。高宗諒陰三年言はずとは、何の謂ぞ。子曰く。何ぞ必ずしも高宗のみならんや。君薨ずれば、百官己れを総て以て冢宰に聴くこと三年。)
 本章は、古代の人君は喪にあつては政を聴かないことが礼であつたことを言うたのである。
 書とは周書無逸篇である。高宗は商王武丁である。諒陰は諒闇とも云ふ。冢宰は大宰のことである。
 子張が問うて言ふには、書に高宗喪に在つては諒闇三年、政を言はぬと云ふことは如何なることであるかと。然るに、孔子は之れに対へて、喪に在つて政を言はぬのは必ずしも高宗のみではなく、古の人は皆さうであつた。君が薨ずれば、百官は悉く己れの官職を引纏めて、命令を大宰から聴くことになつて居る。即ち大宰は君に代つて政を聴くから、国政に支障を来すやうなことはない、と言はれたのである。
 今此の章句を以て現代に当て嵌めようとしても、それは出来ない。併しながら、その精神である礼を重んずると云ふことは今も昔も変りはないが、その形式は今の世に当て嵌まるやうにしなければならぬ。周の時代は殊に礼を重んじたが為に、君薨ずれば喪にあること三年としたのである。礼記の喪服四制の中に、高宗の諒闇三年政を言はなかつたのを称すべしとしたのである。此の高宗は武丁と称し、殷の国の賢主である。世を継ぎ位に即いて喪に服したが為に、殷の国も一時は衰へたけれども、直ちに盛んになり、礼も廃れて居つたが又起つた。之れを以て国人は称して高となし、遂に高宗と称されるやうになつたのである。
 此の諒闇三年と云ふことは、孔子の言はれたやうに高宗独りの行つたことではないが、その喪にある三年の、三年と云ふのは、子供の時は三年間も親に非常に世話になつたと云ふ所から来たもので、父母を追慕する為に之を行ふことを礼とするやうになつたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)