デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

14. 富は国家、社会に利用せよ

とみはこっか、しゃかいにりようせよ

(67)-14

子曰。莫我知也夫。子貢曰。何為其莫知子也。子曰。不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎。【憲問第十四】
(子曰く。我を知るなきかな。子貢曰く。何ぞそれ子を知るなからむや。子曰く。天を怨みず、人を尤めず。下学して上達す。我を知る者はそれ天か。)
 本章は、その当時、孔夫子の学を知る者なきを嘆じたのである。
 孔夫子は嘗て、当世の遂に我を知る者なしと嘆じた。すると子貢は之れを怪しんで、当今の人にして子を知らないものはない筈であるのに、何故に斯く嘆ぜられるのであるかと問うた。孔子はこれ天命であるから、天を怨むこともなければ、人を尤めるにも当らない。寧ろ学問をして上達するに越したことがない、我を知る者は唯天のみであると。
 この章句は実に孔夫子その人を言ひ表はして余薀がないと云つてもよい。私などもかう云ふことを常に心掛けて居るものである。故にある点に於ては、孔夫子を気取るやうなことがないとも限らないが、併しそれ丈け孔夫子を尊崇し、孔夫子の精神を体得した為であるとも言ふことが出来る。孔夫子の教へを形の上では能く知つて居つても、実の上には知つて居るものは至つて少いものである。
 私が実業界に入り、富を増すことに微力を致したことは世間周知のことである。併しながら、その富は自己の富を増すことでなく、国富を増すと云ふことであつた。尤も国富を増しつつ自己の富をも得たことは事実であるけれども、自己の為に図つて国の為に図ることがないのは、大なる誤りであることを信じて居るものである。即ち国家社会を主としてやると云ふやうな働きに長じなければならぬ。
 処が世間の多くは、自己の為の働きのみやつて国家社会の為と云ふことは至つて少い。一体自己の富を増すと云ふことも、決して自分のみの力でなく国家社会のお蔭によつて出来るものである。殊に自分のみ富んで居たからとて、その国が富んで居るものではない。例へば国王が如何に富んで居たからとて、その国全体が富んで居ると云ふことが出来ないやうに、ある一人の人が富んで居つても、他に貧しい人が沢山あれば、その国が矢張り貧しいと言はなければならぬ。換言すれば、自己一人の富を増すと云ふことでなしに、国全体の富を増すと云ふことに努力しなければならぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)