デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

3. 蘧伯玉の儀礼尊重

きょはくぎょくのぎれいそんちょう

(67)-3

蘧伯玉使人於孔子。孔子与之坐。而問焉曰。夫子何為。対曰。夫子欲寡其過而未能也。使者出。子曰。使乎使乎。【憲問第十四】
(蘧伯玉人を孔子に使はす。孔子之れに坐を与へて問うて曰く。夫子何をか為す。対へて曰く。夫子其の過を寡くせんと欲して未だ能はず。使者出づ。子曰く。使なるかな使なるかな。)
 本章は、孔子の蘧伯玉の使者を称した辞である。蘧伯玉は衛の大夫にして名を瑗と云ひ、孔子の友人で、曾て孔子は此の家に居つたこともある。
 蘧伯玉がある時孔子の許に使ひをやつた。用事を終へてから、孔子はその使に坐を与へて、夫子は常に如何なることを為し居られるかと問はれた。使者は主人は何時も過ちを少くせんことに心掛け注意を怠らないけれども、未だ過ちを無くすることが出来ないと対へた。使者が去つてから、孔子はこれを称めて、あれでこそ真の使者である、と言葉を重ねて深く嘆美されたのである。
 此の蘧伯玉は非常の修養の為に努力された人で、蘧伯玉は五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化すと言はれた程である。ある時孔子が家に居られると、車の音がしたが間もなく止んで、又車の音がしたことがある。孔子は、之れは屹度蘧伯玉が必ずこの家の前を通つたのであらうと言はれたが、果してその通りであつたと云ふことである。
 此の時代は先輩の家の前を通る時でも、車から下りて通ると云ふのが礼儀であつた。けれども、実際に之れを行ふといふことが少いものであつた。然るに蘧伯玉が人が見て居つても居らなくても、之れを実際に行つたのに見ても、蘧伯玉の礼儀を重んじた人であると云ふことがわかる。
 かうした礼儀も時代によつて変遷すべきものであつて、孔子の時代にかうであつたからと云つて今日も尚之れを行はなければならぬと云ふことはない。けれども、陰日向によつて差違あるやうではいかぬ。蘧伯玉の礼儀を重んずる精神が、何時でも又何処でも変りがなかつたと云ふことが称すべきである。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)