デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

1. 聞達の差異

ぶんたつのさい

(67)-1

子曰。君子上達。小人下達。【憲問第十四】
(子曰く。君子は上達し、小人は下達す。)
 本章は、同じく達するにしても、君子と小人とによつて各異ることを云ふ。
 この章は字の通りであつて、別に此処に取り立てて言ふ程の深い意味はないが、若し之れを引延ばして達の字を講義すると、広くもなり深くもなる。先づ此の達の字は、聞と達の二つに区別することが出来る。聞はその形、達のやうで仁に見えるけれども、行ひは之れに伴はぬ。丁度小才子の為すことに真底がなく、広い深い学問もないやうなものである。
 之れに反して達はその為すことに深味があり、重味がある。又学問にしても、より深くより広いのである。顔淵篇に「それ達は質直にして義を好み、言を察して色を観、慮つて人に下る、邦に在つても必ず達し、家に在つても必ず達す」とあるのも之れであつて、単にその形ばかりでなく、その行ひまでその通りにならなければならぬ。之れを以ても、如何に孔子が達に重きを置いて居るかを知る事が出来る。
 諸葛孔明の出師の表の中に「命を乱世の中に全うして、聞達を諸侯に求めず」とあるのは、達は聞と達とを区別することを証すべきである。而してこの達と云ふのは表べのものでなくて真底から徹底した行動を採ることである。
 併し此処に云ふ達は、それ程深い意味を有つて居るものでなく、単に通達すると云ふことに過ぎぬ。即ち君子は道に志を有つて居るが為に、その学ぶ所のものは修身治国にあるから、遂には道徳、義理に通達する、けれども小人はその学ぶ所のものは末技小利に過ぎないからその通達する所のものも屑〻たる事功技芸に過ぎない。故に君子は上達し、小人は下達すと云つたのである。人はその学ぶ所其志す所を択ばねばならぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)