デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

21. 凡ての行動は礼を基調とす

すべてのこうどうはれいをきちょうとす

(67)-21

子曰。上好礼。則民易使也。【憲問第十四】
(子曰く。上礼を好めば、則ち民使ひ易し。)
 本章は、人の君たる者が礼を好めば効あるを言うたのである。
 人君自ら礼を好めば、民も倣うて使ひ易くなると云ふのである。そして之れを以て見ても、孔子は如何に礼を重んじたかを知ることが出来る。論語の「顔淵篇」に、顔淵が仁を問うたのに対し、孔子は、己れに克つて礼に復れば仁となる、一日己れに克つて礼に復れば天下仁に帰る、仁となるは己に由つて、而して又人に由るものである、と対へた。淵顔[顔淵]が更にその項目を問ふと、孔子は、非礼視るなかれ、非礼聴くなかれ、非礼言ふことなかれと言つたことがあるが、之れは皆礼の重んずべきを示したのである。
 総て礼を基調として行らなければ、正しきことが行はれるものでない。即ち吾々の一挙一動にも礼がなければならぬ。かう言へば、或は礼は可笑なもののやうに思ふかも知れぬが、日常の起居、動作に於て節制がなければならぬ。此の節制と云ふことが、礼に外ならぬのである。又政道にしてもさうである、国民の福利増進を図り、国家の隆昌を期すると云ふことは我慾があつては出来ぬ。即ち節制してその宜しきを得て政道が正しくなる、之れが礼である。礼楽刑政と云ふも、究極する所、礼の本体に到達せしめようとするに過ぎない。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)