デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

15. 富は学問、道徳の犠牲たれ

とみはがくもん、どうとくのぎせいたれ

(67)-15

 然らば如何にして国富の増進を図るかと云ふに、富を取り扱ふ所の実業界の発展に尽すのが最も効能がある。而して私の実業界に入つたのも実に茲に胚胎して居るのである。そして自己の為でなくして、国家、社会の為になることについて働いたのである。
 若し富を己れのみに集中しても、国家社会の為にすると云ふ考へがない場合には、その富は無用なことにのみ使はれて仕舞ふ。即ちその人を得ないと、折角の富も安逸贅沢などに使用されて、人を誤り、隣を害することになる。かうなれば富も下らんものになるから、下らんものを集めても何にもならん訳である。
 富と云ふものは、時代に応じ、学問、道徳の為には犠牲にすべきものであるから、社会的事業、国家的施為をなすべきである。然るに一体今日の富に対する考へは、自分一個の為に富をなすと云ふことが最も多く、富を国の為に使ふと云ふことが少なくなつて居る。これではいけない、どうしてもこの悪傾向の矯正をしなければならぬと思つて居る。私などが出来る丈け国家社会の為に尽し、今後も亦尽さうとして居るのも之れが為である。
 そしてかうする事は、決して人に知られんことを希ふ為ではなく、国家、社会に尽すことが自己当然の本務であると信じて居るからである。故に人に知らるることがなくとも、天を怨みず、人を咎めず、自己の尽すべきことは尽すべきである。かう云ふことを知つて居るのは独り天のみである、と思ふことによつて、自己の名利を放れ、国家、社会の為を思ふに至るものである。

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キーワード
, 学問, 道徳, , 犠牲
デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)