デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

2. 耳より入り口より出づ

みみよりいりくちよりいず

(67)-2

子曰。古之学者為己。今之学者為人。【憲問第十四】
(子曰く。古の学者は己れの為にし、今の学者は人の為にす。)
 本章は古は内を貴ぶことを主としたけれども、今は内を忘れて外を貴ぶやうになつたと云ふことを説いたものである。
 古の学に志すものは、その学問の己れの心に得んことを心掛けたけれども、今の学問をなす者は、先づ己れに得ることよりも、徒に口舌を巧にし、偏に名声の人に知られんことのみを心掛けるものである。故に古の学者は己れに益があつたから、人にも益を与へるやうになつたけれども、今の学者は己れに得ることが出来ない為に、人をも益することが出来ぬのである。
 孔子の時代もこのやうであつたらうが、今の学者もこのやうであり又一般の人達もこの傾向を多分に有つて居る。故に、実際からすれば自分はそれ程の力も何もない癖に、名をも地位をも得ようと心掛けて居る。これなどは今日の議会の有様を見ても判るではないか。徒らに口舌にのみえらさうなことを言つて得意になつて居るけれども、その内容は空漠なものである。之れは実力が伴はなくとも名声を博せんとするからである。これ等の徒に向つてはこの文句を飲ましてやり度いものである。
 荀子の勧学篇に「小人の学は耳より入つて口に出づ、口耳の間僅に四寸のみ、竭ぞ以て七尺の軀を美とするに足らんや」とあるが、今日の学者に向つて大なる皮肉を投げかけたものと云つてよい。実際人から受け入れた事が、直に己れの物にでもなつたかのやうに口から出るのである。これでどうして其学問に生命を発見することが出来よう、而も之れを以て得意とするやうでは何とも譬ふべき言葉がない。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)