デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

13. 積極的に説けば極端となる

せっきょくてきにとけばきょくたんとなる

(67)-13

或曰。以徳報怨。何如。子曰。何以報徳。以直報怨。以徳報徳。【憲問第十四】
(或る人曰く。徳を以て怨に報ぜば、如何。子曰く。何を以て徳に報いん。直を以て怨に報い、徳を以て徳に報ず。)
 本章は、人と交るに徳を以てし、徳に報いることでなければならぬと説いたのである。
 或る人が孔夫子に向つて、人が我に横しまな事をしても、我は却て之れに報ゆるに恩恵を以てしたならばどうであるか、と。然るに孔夫子は之れに対へて、其の怨むべき者に徳を以てしたならば、我に徳のある者には何を以て報じようとするのか。寧ろ正しき心を以て、怨むべきは怨み、憎むべきは憎むべきものである。が、我に対し徳ある者に対しては、必ず徳を以て報ずることを忘るべきでないと答へた。
 この徳を以て怨みに報いるの語は、老子の書中にあるが、孔夫子の説かれた所は其の旨意に反して居る。一体之れはかうでなければならぬと積極的に説くと、どうしても極端に走るやうなことになる。処が孔子は事に対するに斟酌の心を失はない、平和、温厚と云ふことは孔夫子の教への一貫して居る所である。故に怨みに報いるに徳を以てするならば、徳に報いるに何を以てするかと反問して、正しき心を以て怨むべきは怨み、徳に報いるに徳を以てするがよい。例へば人に交るにも、その親密の度合に深浅、厚薄があるやうにすべきものである、と説かれたのである。
 キリストの教へに左の頰を打たば、右の頰をも打たせよと云ふことがあるが、之れは老子の徳を以て怨みに報いると同じく、積極的教へであるが為、一方に偏することを免れない。消極的にして矯激にならないやうに努めて居るのが孔夫子の最も高い所である。
 世の中に親切の押売をする者が多い。社会の思想が悪化して居る、若しこの儘に放任したならば、その弊風の及ぶ所測り知ることが出来ぬ、故に今日の中に匡救しなければならぬと云ふ。尤も今日の社会は確かに匡救しなければならぬ点は数々あることは事実であるが、斯く言ふ人にして果して自分自身が能く修まつて居るかどうか。自分自身を修めることが出来ないで、僣越にも社会を救済するなど云ふことは大それたことである。

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デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)