22. 子路の勇気死を招く
しろのゆうきしをまねく
(67)-22
子路問君子。子曰。脩己以敬。曰。如斯而已乎。曰。脩己以安人。曰。如斯而已乎。曰。脩己以安百姓。脩己以安百姓。尭舜其猶病諸。【憲問第十四】
(子路君子を問ふ。子曰く、己を脩むるに敬を以てす。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて人を安んず。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて百姓を安んず。己を脩めて百姓を安んずるは尭舜それ猶諸《これ》を病めり。)
本章は、君子は己れを修めて人を治むることを言つたのである。(子路君子を問ふ。子曰く、己を脩むるに敬を以てす。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて人を安んず。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて百姓を安んず。己を脩めて百姓を安んずるは尭舜それ猶諸《これ》を病めり。)
子路が孔子に対つて、君子とは如何なる人を言ふのであらうかと問うた。孔子は、己れを修めてそして人を敬すればよいと答へた。すると子路は之れでは物足らず思つたので更に、斯の如くすればもう君子と称することが出来るであらうかと言つた。然るに孔子は改めて、己れを修めて人を安んずればよい。更に進めて、己れを修めて百姓を安んずればもう君子と称して差支ないものである。併しながら、大聖尭舜と雖も此の己れを修めて百姓を安んずることは却〻六ケしいものとして居るから、常人は猶更のことであると答へた。
子路は直情径行で、自分の信じたことを直に行ふ勇気のある人である。その勇気の為に己れの危険をも念としないことが多いので、孔子の為に屡〻誡められたことがある。嘗て孔子は、道が行はれぬので世が乱れて居るから之れを見るのも堪へ得ぬ。故に筏に乗つて海に避けたならば、我に従つてついて行くのは子路独りであらうと言つた。子路は之れを聞いて大いに喜んだから、孔子は、それでは余りに勇気が過ぎて居ると言つたことがある。又子路が孔子に向つて、三軍の師を動かさんとする時には誰と与にするであらうと云ふと、孔子は、暴虎馮河死して悔いない者とは与にすることが出来ぬと云つて、子路を諷諫したことがある。
子路はこのやうに勇気があつた為に、衛に仕へて居る時に戦争に出て遂に討死をした位、直進的で率直な人であつたから、君子とはそんなものかと云つた時、孔子は君子を三段に分けて之れを説明した。そして最後に、己れを修めて百姓を安んずるのは、尭舜と雖も猶之れを難しとすると結んだ所などは、能く子路の人となりを知つて、之れに当て嵌まるやうに説明したもので、誠に面白いと思ふ。文章としても優れて居る。今日でも、子路流の人が能くこれしきのことかなぞと、直ぐにでも之れを実行出来るやうなことを云ふ人もあるやうであるが此の之れしきのことが、容易のやうであつて却〻容易でない。之れを孔子が茲に誡めたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)