5. 心の欲する所に従て矩を踰えずの境地に至れ
こころのほっするところにしたがいてのりをこえずのきょうちにいたれ
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子絶四。毋意。毋必。毋固。毋我。【子罕第九】
(子、四つを絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し。)
意、必、固、我の四つは誰にも無くてはならぬものであるが、此の四つには決して私があつてはならない。三島先生は意とは私意、必とは理の是非を問はず必ず斯くせん斯くせじと期欲する意、固とは事の是非得失に拘らず我意を執つて動かざる意、我は即ち私己であると解釈されて居るが、之れは其の通りである。而して四者は渾べて私意にして、境遇に触れて其の名を異にせるものであるが、孔子は勉めて此の四者を絶ちて尽く之を無からしめた。即ち諸事大公至正にして、其の行ふこと悉く義に適し、道に適うて居つた。世人の大に学ぶ可き点である。(子、四つを絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し。)
元来、意、必、固、我を全く絶つというても、之を全く無くして生存し得らるる訳のものではない。されば一切此の四者を絶つて仕舞ふといふ事は出来ない。孔子の教へも亦全然なくして了ふといふのではなくして、此の章は皆私字を補つて見るのを適当とする。即ち此の四者が私に根ざして不道理に働く場合を絶つといふのである。換言すれば、何事を行ふにしても必ず道理に適ひ、徳義に反せず、至公至平であれと訓へられたのに外ならぬ。
人間には喜、怒、哀、楽、愛、悪、慾の七情があるが、此の七情の発動が総て宜しきに叶ふ様にしなければならぬ。夫れには克己して自らの弊を矯める様にすべきである。世の中には哀しい事があつても悲しい顔をせず、嬉しい事があつても喜んだ顔を見せない人もあるが、之は虚偽である。聖人は喜ぶ時には悦び、悲しい時には悲しんで、七情の発動が能く理に適うて居る。孔子は曾て「七十而従心所欲不踰矩」と云はれて居るが、此の心の欲する所に従て矩を踰えずといふのは、心の欲する所に従つて言動し然かも聊かも道理に違はず、自ら法度に適して居るといふ意味であつて、人間の七情の発動が此の境地まで至らなければ本当でない。即ち、能く意、必、固、我の四者の私を絶つて人間としての正しい道を歩む様に心掛く可きである。
- デジタル版「実験論語処世談」(52) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.405-409
底本の記事タイトル:三〇九 竜門雑誌 第三八九号 大正九年一〇月 : 実験論語処世談(五十一《(二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第389号(竜門社, 1920.10)
初出誌:『実業之世界』第17巻第10号(実業之世界社, 1920.10)