デジタル版「実験論語処世談」(52) / 渋沢栄一

2. 私利私慾を排す

しりしよくをはいす

(52)-2

 さて私は利は矢張り利と解釈して宜いと説いたが、自己を利するのみの意味でない事は勿論であつて、私の言ふ所の利は、少しも私のない、真理に適ふ利を指して謂ふのである。大学の中にも「利を以て利とせず、義を以て利とす」と書かれてあるが、三島先生は先年「義利合一論」といふものを著はされ、「義に全ければ利自ら至る。義によらぬ利は真の利といふ事は出来ない」と説かれ、利は義なりとの解釈も此の見地より下されて居るのであるが、私は利は利なりとの解釈に就て別個の意見を有して居る。
 即ち其の利は、当然義に適ふ利でなければならぬが、吾々人間として生活して行く上に日常欠く可らざる衣食住の三つは、必ずや正当なる利に拠らなければならぬ。一人一家にして既に然り、況んや一県一国にして利の必要なるや論を俟たざる所である。此の故に私は利を矢張り利と解釈せんとするものであるが、一歩を謬れば我利となり私利となり、却つて世を害するに至るを以て世人は大に慎む可きである。殊に近年唯物主義が盛んとなり、我利私慾を図るに汲々たる者が多いやうに見受けるが、是は最も戒む可く慎む可き事である事を深く思ふ可きである。
 畢竟算盤を弾く事は利であるが、論語は道徳である。私は此の二つが伴はなければならぬと信ずるを以て、論語の訓へを咀嚼して処世の道として居るが、又後進の人々にも此の二者の並行しなければならぬ事を説いて処世訓としてゐる。斯くて克く道徳を守り、私利私慾の観念を超越し、国家社会に尽すの誠意を以て得たる利は是れ真の利と謂ふを得べく、又三島先生の義利合一論に合致するものであると信ずるものである。

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キーワード
私利, , , 私慾, , 排す
デジタル版「実験論語処世談」(52) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.405-409
底本の記事タイトル:三〇九 竜門雑誌 第三八九号 大正九年一〇月 : 実験論語処世談(五十一《(二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第389号(竜門社, 1920.10)
初出誌:『実業之世界』第17巻第10号(実業之世界社, 1920.10)