デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一

2. [東洋道徳と西洋道徳の違ひ]

とうようどうとくとせいようどうとくのちがい

(46)-2

 然らば此思想道徳を今日の世に当嵌めることが出来るか、今の道徳から言うたならば、自己の働きは自然と世の中に現はれるやうになるではないかと云ふやうな議論が有るが、之れは今日盛になつて来た西洋の道徳と、此東洋の道徳との間に違ひが有る訳である。
 其根源を極く短い言葉を借りて言ふと、西洋の道徳の大本とも云ふべき福音書の馬太伝の内に斯ふ云ふことが有る。人は自分で善事をすると共に、善いことは成るべく他人に奨めて行はせるのが人たるの務めであると。
 之れに反して孔子の教とする所は、己の欲せざる所人に施す勿れと云ふので、恰度西洋の道徳とは逆を言つて居るのである。
 西洋の道徳は積極的で、自分が実行するばかりでなく飽迄他人にもやらせようとするのである。之れは能動の態と云ふことが出来る。所が東洋の道徳は消極的で、己の欲しないことは他人に施すなと云ふのである。之れは受身の態と云ふことが出来る。茲に東洋の道徳と西洋の道徳の違ひが生じて来るのである。其外にも色々の点に於て変化を生じ差別を現はして来るのである。根本に至つてみると、茲に言ふ所の言葉が東西両洋の道徳の違ひをよく分り易く説いて居ると思ふのである。斯く根本に於ては僅かの差異で物の裏と表とを言つたに過ぎぬのであるが、夫れが互に自分の道徳のみを発展せしめて行くと、仕舞には非常な違いを生じ、大変な距離になつて来るのである。
 泰伯のやり方は此東洋の道徳をよく現はしたもので、如何にも善事は、洋の東西を問はず各自せねばならぬ。それで泰伯は当然継ぐべき天下を季歴に譲つて善事をしたが、若し之れが世間に知れるとなると兄が天下を継がないで弟が天下を継いだことが分つて亶父及び季歴を譏ることとなる。其処で季歴の人格が何程優れて居つたか其点迄よく分らんが、其親が弟に天下を継がせたいと云ふ意志の在る所を悟つて他人に知れぬやうに泰伯は之れを譲つて、季歴をして周の天下を継がせるやうにした。其時は天下の民百姓は泰伯が如何に偉いかと云ふことを少しも知らずに過して了つた。其時若し泰伯のした事が分つて泰伯が偉いと云ふことになれば季歴が冒したことになる。斯くては泰伯は自分の本志を全うすることが出来ぬ。一説に拠れば泰伯は日本に逃げて来たと云ふ説もある。

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キーワード
東洋, 西洋, 道徳, , 違ひ
デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.360-363
底本の記事タイトル:二九五 竜門雑誌 第三七六号 大正八年九月 : 実験論語処世談(第四十六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第376号(竜門社, 1919.09)
初出誌:『実業之世界』第16巻第9号(実業之世界社, 1919.09)