デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一

1. [世に知られずして為すを至徳]

よにしられずしてなすをしとく

(46)-1

子曰。泰伯其可謂至徳也已矣。三以天下譲。民無得而称焉。【泰伯第八】
(子曰く、泰伯は其れ至徳と謂ふ可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称すること無し。)
 周の興る前の殷の政事は封建制度であつたが、周に徳の備はつた賢王が相続いで出られた為に天下の人心が次第に周に向つて靡くやうになり、遂に周の武王の時に及んで、殷を亡ぼして天下を一統するに至つたのである。
 武王の父に当る文王と云ふ人は、之亦至つて有徳の人で、国威の発展の為に色々力を尽された人である。そこで遂に天下を三分して其の二を有すると云ふ盛運を開いた人である。それ程有徳であつたけれども、文王の時代に於ては周はまだ殷と同列に並ぶ諸侯であつて、天下が悉く周のものとなることはなかつた。
 然るに殷の紂王は甚だ無為無能で、民に対して残酷の政を為し、人心も次第に離反して行くと云ふ有様であつたから、武王の世になつて遂に殷を亡ぼして周の天下として了つたのである。
 之れ等を日本の国体から論ずると云ふことになると、色々立場を異にして居る所もあるので、細かには論じかねるのである。
 天下を一統して周の世と化した武王に取つて、泰伯は曾伯父に当ると云ふべきである。泰伯のお父さんの亶父(大王)に三人の子供があつて、泰伯は其長子であつた。そこで当り前から云ふと泰伯が亶父の後を継ぐべきであるが、亶父の末子である季歴の子昌が聖徳があるので、亶父は先づ季歴に周を譲り、次いで昌に其後を継がせんと希つて居た。
 この亶父の意中を知つた泰伯は、次子仲雍と共に走つて荊蛮に逃げて了つた。そこで大王は季歴を立てて国を伝へ、次いで季歴の子昌が継いで聖徳を現はすに至つた。而して世間では、泰伯が位を譲つたことに就て一向に気がつかぬ。季歴が次ぎ昌が次ぐことを極めて当り前のこととして居た。
 孔子はこの泰伯が父の意の在る所を知り、当然自分が継ぐべきを譲りて父の志を成し、且つ其譲るに当つて、之れを少しも他のものに知らしめ悟らしめることなく、極めて巧妙にした為に、天下の民が之れを知らずして、一人も泰伯を称讃するものが無い。この泰伯のやり方を至徳として賞められたのである。
 天下の民が誰一人として称するものないと云ふ巧みなやり方をして少しも他人に誇らぬと云ふ所に深い意味が有つて、孔子の至徳と云はれる所である。
 今の世の中に於ては、自分の行つたことが世間に知れて賞められることを手柄とし、中には殊更に吹聴して、自分の功績が世間に知られんことを希うて、さう云ふ態度に出るものさへある。之れに反して此時分に於ては、極く謙譲を主義とし、徳義を重ずると云ふのであれば自己の功績は成る丈け世の中に知られぬやうにすると云ふのである。之れが又孔夫子の大いに称讃された意味の深い所である。

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デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.360-363
底本の記事タイトル:二九五 竜門雑誌 第三七六号 大正八年九月 : 実験論語処世談(第四十六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第376号(竜門社, 1919.09)
初出誌:『実業之世界』第16巻第9号(実業之世界社, 1919.09)