デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一

3. [光圀と楽翁の至徳]

みつくにとらくおうのしとく

(46)-3

 此泰伯のやり方に就て想ひ当る近い例を云ふと、水戸の光圀侯と松平楽翁侯とのやり方である。
 家康は十二人目の子である義直を尾張に、其次の頼宣を紀伊に、其次の頼房を水戸に置いて所謂徳川の御三家なるものを創めた。
 徳川光圀侯は此三家の中水戸の頼房の子であつたが、兄の頼重が相続すべきを父の意に依つて自分が継ぐことになつた。此兄に代つて相続したことを酷く心苦しく思つた人である。十八歳の時史記列伝を読み、伯夷論を見るに至り、兄弟譲合ひをした結果は中子を以て父の跡を相続すると云ふことが殷の時代に在つたことを知るに至つた。
 之れを知るに至つた光圀は、自分が弟でありながら相続したことを非常に心苦しく思ひ、何うかして之れを取り消さんものと色々考へた結果、自分の子は高松侯の養子として之れを相続せしめ、高松侯の子供を貰つて自分の家を相続せしめんとした。而して之れを実行したが其長子綱方は早世したので、次子綱条を以つて光圀侯の相続人としたのである。
 光圀侯の斯くの如き行為は、伯夷論を読み、又泰伯の事蹟を知るに至つて深く感じたからである。而して此事を余り世の中に知らせぬやうにしたのは、光圀侯の最も尊敬すべき所であると云はねばならぬ。
 次に白河楽翁侯は、時の将軍家斉と復の従兄に当つて居る。八代将軍吉宗から分れて居つて、何れも吉宗の子の子である。楽翁侯は田安家を継ぎ、一方家斉は一橋家の出である。
 此楽翁侯は質素、勤倹、謙譲を好み、豪奢とか金銭を弄ぶと云ふことは非常に嫌ひであつた。之れに反して時の将軍家斉は、中々の才子であつたが、極く豪奢な人で、又此人に依て徳川の家を非常に華やかにしたのである。
 実に此時代を大御所時代とも云うて、凡ての事が華美に流れ、徳川時代に於て一つの特徴を示して居るのである。恰度仏蘭西のルイ十四世と相類似した所があるのである。
 之れを松平楽翁侯は非常に心配して、斯くては徳川家の為に甚だ宜しくないと云ふので、始終非難もし、又色々の手段で之れを矯正しようと努めて居た。
 然し楽翁侯は、他人の家来である。自分が余り諫め立てすることは宜しくない事である。そこで成る丈け世間に知れないやうにして、自分の憂ふる所を他人に知らしめようとした。日本外史に序文を書いたこと等もさう云ふ意味からである。此儘にして置けば徳川家の未来は維持が困難であると云ふので非常に心配し、然もそれを表立つて兎や斯う云ふことは宜しくないから、詰り世間に知れぬやうにして力を尽したのである。
 尚此外にも楽翁侯の徳を称すべき事蹟は数々あるが、唯此一事を以て見ても、楽翁侯が如何に有徳の人であつたか其程合ひがよく解るのである。
 楽翁侯の如きは、消極的であり受身的であることを主義とする東洋道徳の骨髄を体現したものとして後世称讃の声が甚だ高いのである。

全文ページで読む

キーワード
徳川光圀, 松平定信, 至徳,
デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.360-363
底本の記事タイトル:二九五 竜門雑誌 第三七六号 大正八年九月 : 実験論語処世談(第四十六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第376号(竜門社, 1919.09)
初出誌:『実業之世界』第16巻第9号(実業之世界社, 1919.09)