デジタル版「実験論語処世談」(55) / 渋沢栄一

1. 能く人の言を聞き己れの行を省みよ

よくひとのげんをききおのれのこうをかえりみよ

(55)-1

子曰。法語之言。能無従乎。改之為貴。巽与之言。能無説乎。繹之為貴。説而不繹。従而不改。吾末如之何也已矣。【子罕第九】
(子曰く。法語の言は、能く従ふこと無からん乎。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶこと無からん乎。之を繹《たづ》ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従て改めずんば、吾れ之を如何ともすること末《な》きのみ。)
 此の章の意味は、徒らに人の言を聞くのみにて、自ら省みて益する処がなかつたならば、何にもならぬと警められたのであつて、分り易く解釈すれば、人を教誨するには正面から真直に理窟を以て説くのと婉曲に説くのとの二種がある。例へば、親孝行を奨めるにしても、古聖賢の語を引き、人の道を説いて誡めるのと、直接問題に触れずに或は二十四孝の例であるとか、或は親不孝をした者の話などをして、それとなく親孝行をすすめるといふ遣り方である。而して正当な理窟には誰しも服従しない者はないが、単に服従したるのみにて、自分の行ひを改めなければ何の益もない。又譬喩を引き、他の事実を語つて婉曲に説く時は、誰でも之を悦ぶけれども、其の談話の意が何処に在るかを知つて、自ら省る事をしなかつたならば結局詰らぬことであると警められたのである。
 私共も、永い間の中には人に対して訓戒を与へ、誘導的意見を述べた事も屡〻あるが、其の対手の人間の性格と、時と場合とを考へて、正面から許り説いてはならぬ。却つて反面から婉曲に説いた方が非常に効果がある場合が多い。而して聞かされる人の内には、能く自己を省みて行ひを改むる人と、其場限りの人とがあるが、前者は其の前途に見込みがあるけれども、後者は多く望みを属する事が出来ない。今適当な実例はないけれども、此の訓へは尤も千万な事であつて、現代の人も能く服膺すべきであるが、人を教誨するにも、学問上、道徳上より正面に説くよりも、所謂巽与の方面より説くのが効果が多いことを、私の実際上の経験から能く思ひ当る事がありますから茲に申添へて置きます。

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デジタル版「実験論語処世談」(55) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.459-462
底本の記事タイトル:三二八 竜門雑誌 第四〇五号 大正一一年二月 : 実験論語処世談(第五十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第405号(竜門社, 1922.02)
初出誌:『実業之世界』第18巻第6号(実業之世界社, 1921.06)