デジタル版「実験論語処世談」 理財と道徳(54) / 渋沢栄一

5. [努力する人と努力せぬ人と]

どりょくするひととどりょくせぬひとと

(54)-5

子曰。後生可畏。焉知来者之不如今也。四十五十而無聞焉。斯亦不足畏也已。【子罕第九】
(子曰く。後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らん。四十五十にして而して聞ゆること無きは、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。)
 後生とは後進といふ事であつて、此の章は即ち「後進の年少者は畏る可き者である。後進の士は年も若く気力も旺盛であるから、学を積み行ひを修めて進んで止まなければ、其の将来は測り知る可らずである。されば今後出で来る者が現在の人に及ばずと定むることは出来ない。然しながら四十歳五十歳となつても一向に名声の聞ゆることのない人であるならば、終に成業せざる凡庸の人であるから、是又畏るるに足らぬ」と、門弟子を且つ訓戒し且つ奨励されたのである。
 此の章句は孔子が相当の齢になつてから言はれたものらしく、初め「後生可畏」と推称され、後に「不足畏」と之を抑へられた処に深い教訓が含まれて居る。兎角老人になると過去をのみ顧み其の感想を語る弊が多い。卑近な例を挙げると、昔の力士は大きかつたとか、昔の役者は今の役者より上手であつたとかいふ事は、能く耳にする処である。之に反し、若い人は過去が少い故、未来許りを説く、其の未来あるが為に勉めて止まなければ名を成すに至るのである。世の中の人が過去のみを顧み、後進を軽んじて居つては世の中の進歩に伴はなくなる。之と共に後進者が其の少壮の時に於て勉励しなかつたならば、後来名を成し、世の中を進むる事が出来ない。されば青年も、老人も相顧みて誤りに陥らぬ様にありたいと思ふ。
 私の旧くからの知友其他に就て見るも、「もつと発達してもよい」と思ふ様な人で碌々としてゐるのがある。夫等の人々の噂を聞いて見ると、大抵は努力が足らぬ為めである。されば孔子の此の章句と想ひ合せて、実に味ひのある言であると熟〻感ずるのである。

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デジタル版「実験論語処世談」 理財と道徳(54) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.453-455
底本の記事タイトル:三二五 竜門雑誌 第四〇四号 大正一一年一月 : 実験論語処世談 理財と道徳(第五十二《(四)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第404号(竜門社, 1922.01)
初出誌:『実業之世界』第18巻第5号(実業之世界社, 1921.05)