デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一

7. 孔子の理想は人類の幸福増進である

こうしのりそうはじんるいのこうふくぞうしんである

(62)-7

 井上博士の説は別として福地桜痴、唐沢斗岳両氏の説に依れば、孔子は政治家として立たんが為に汲々として居た様に見て居るが、是れは余程見方が誤つて居はしまいか。孔子の時代は周末であつて、先王の道は大いに頽れて居つた。孔子は大いに是れを慨嘆し、何うにかして先王の道を再び盛んならしめて、人民をして其の堵に安んぜしめんと考へ、是れが為に熱心に道を説かれたのである。而しながら、道を行ふには直接政治の衝に当るより捷径はない。それが為孔子は、招聘に応じて屡〻仕官した。然し孔子は権力に依りて名を後来に貽さうとか、又は高位高官について権力を張り度いとかいふやうな念慮は微塵も有つたのではない。之によつて道を行はんとせられたのであつて、人民の幸福を増進せんとする念慮の外はなかつたのである。孔子は魯の国に於ては大夫の職に次ぐ重要な職に就き、魯・斉の君の会にも出でて小国で有りながら其の使命を恥かしめず、文事有る者必らず武事有りと云ひて断乎として卑俗の音楽を排けたり、姦臣を一刀両断にしたり、頗る果断の処置を取り、温厚の風に似合はぬ疾風迅雷的の風を偲ばせらるるやうな事もある。
 要するに孔子の理想とする処は、政治を理想的に発展せしめて、四百余州を統治する事が真の目的で有つたのではなくて、人の人たる道を教へ、民の幸福を増進し、今の言葉で言へば社会の秩序を保ち、人類の幸福を増進して、理想的社会を実現せんとするのが其の真の目的であつたのである。其の政治に干与せるは、其の理想を実現せんがための一つの手段に過ぎなかつたのである。而して時の君主が孔子を利用する為には辞を厚うして聘したけれども、根本の精神が違つて居るから、利用する事が出来なくなつてしまふと弊履の如く孔子を顧みない。それで志を述べる事は出来ないから、六十八歳にして直接政治に干与する念を断ち、専心教化の事業に従はれたのであるが、直接或る権力に就く許りが必ずしも政治の要諦ではない、人民の幸福を増進し各々其の堵に安んぜしめる様にするのが真の政治の根本であつて、是は必ずしも為政者としての立場につかなくとも為し得る事柄である。孔子が直接政治家としての念を断つてからは、此の意味に於て自分の意志を世間に広めんとしたので有つて、此の趣意は論語の全巻を通じて窺ひ得るのである。

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キーワード
孔子, 理想, 人類, 幸福, 増進
デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)