デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一

5. 福地桜痴氏の孔夫子論

ふくちおうちしのこうふうしろん

(62)-5

 成程唐沢氏の孔子政治家論は、従来の孔子論よりも少しく見方が違つて居る様であるが、然し是れは唐沢氏の新説ではなく、前にも是れと同じ様な意味の観察をした人があつた。明治初年の頃、文筆を以て頗る有名な福地桜痴と言ふ人があつた。此の人の実父は有名な学者で漢学の造詣が深く、殊に孔孟の学問を深く究めた人であるが、桜痴と言ふ人は頗る磊落な人で、始終狭斜の巷に出入し、夫子の道などについては殆ど無頓着なやうな人であつたけれども、流石に実父の薫陶を受けただけあつて、論語については一見識を持つて居たものである。確か明治十四五年頃の事と思ふが、向島の大倉喜八郎氏の別荘に友達が相会して花見の会を催した事があつた。その時福地桜痴氏も見えられて、「孔夫子」と言ふ演題で一場の講演を試みられたが、非常に文筆の達者な人だけあつて、門人との問答を巧に引証したり、論語の学問を哲学的に解釈したり、所謂談話の背景が頗る面白く、引例が該博なだけに一段と興味深く聞かれたのであつたが、その時の講演が丁度唐沢氏と同じ様な解釈を下して居つた。今回唐沢氏の著者を読むに及んで図らずも数十年前の福地氏の論と同様なのを思ひ出して、一入の興味を覚えたのである。

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キーワード
福地桜痴, 孔子,
デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)