デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一

1. 質と文とは車の両輪の如し

しつとぶんとはくるまのりょうりんのごとし

(62)-1

棘子成曰。君子質而已矣。何以文為。子貢曰。惜乎。夫子之説君子也。駟不及舌。文猶質也。質猶文也。虎豹之鞟。猶犬羊之鞟。【顔淵第十二】
(棘子成曰。君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢曰く。惜いかな夫子の君子を説くや、駟も舌に及ばず。文は猶ほ質の如く、質は猶ほ文の如し。虎豹の鞟は、猶ほ犬羊の鞟の如し。)
 棘子成は衛の大夫であつたが、君子は質実の徳があれば宜しい、外飾の文は無用であると説いた。蓋し之れは当時の民が文に奔るの弊を見て此の言をなしたのであつた。処が之を聞いた子貢は、一度間違つて口外した事は駟馬を以て之れを追ふとも及ばぬと、言語の苟くすべからざる事を論じ、且つ子成の間違ひを正して之を駁した。即ち文質兼ね備つてこそ始めて君子であつて、君子に文がなければならぬ事は恰も質がなければならぬと等しく、又質がなければならぬ事は文がなければならぬのと同様である。此の間に軽重大小の差がない。されば決して質のみを重んじて文を軽んじ、之れを棄つ可きでない。譬へば皮は質であつて、毛は文である。若し毛を去つてしまつたならば、虎や豹の皮も犬や羊の皮と同じやうになつて見分けがつかなくなる。毛があつてこそ虎や豹の皮は珍重されるのである。然して其の毛許りあつても駄目である。毛を支へる皮があるから、即ち毛皮共にありて始めて虎豹の皮が価値あるのである。質と文とは恰かも毛皮の関係と同じやうなものであつて、質があつて文があり、文があつて質がある。其の一を欠くと価値がない。恰かも車の両輪の如きものである。されば文質は断じて大小軽重の差を設ける事の出来ぬものであつて、若し一方に偏するやうな事があれば其所に弊害が伴ふ様になるものであると説かれたのである。之れは実に至言であつて、現代に当て嵌めて見ても、一方に偏倚することの弊害の実例が少くないやうに思はれる。

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デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)