デジタル版「実験論語処世談」(69) / 渋沢栄一

3. 仁は人徳、行の綜

じんはじんとく、こうのそう

(69)-3

子曰。志士仁人。無求生以害仁。有殺身以成仁。【衛霊公第十五】
(子曰く。志士仁人は、生を求めて以て仁を害する無く、身を殺して以て仁を成す有り。)
 本章は、時に仁の為に身を殺すこともあると云ふことを言つたのである。
 仁に志す士と、仁徳のある人は、己れの死生を忘れて仁の為に尽さうとする。故に生命を得る為に仁を害することがなく、義の為に身を殺しても仁をなすと云ふのである。
 之れは非常にやかましい文句であるが、文天祥の衣帯にのこれる賛に之れと同様の意味のことを書かれてある。「孔曰く、仁を成す、孟曰く義を知る。惟れその義尽く仁に至るの所以、聖賢の書を読み、学ぶ所何事ぞ。而して今而して後、庶幾愧なし」とある、之れである。「孔曰く義を取る」は、孟子告子篇に「生亦我の欲する所、義亦我れの欲する所なり、二者兼ね得べからざれば、生を捨てて義を取る者なり」を指したものである。
 論語は仁を根本として居るので、仁を重んじて居ることも亦大である。そして仁と云つても色々の意義が含まれて居る。忠も孝も義にして節を曲げないことも仁である。仁は心の徳、行の綜であるから、万事の善、道理の枢機、人生の達徳と云ふことが出来る。貝原益軒も仁は義、礼、智、信を兼ねてその中にあると言つて居る。
 孔子は此の仁を捧持して居る。そして之れを軟かに説いて教へて居る。若し強い人であると一本調子になつて進むものであるが、孔子は余りに此処に拘泥しないでやる処に孔子の思想がある。而も其処に決然たる所がある。論語に注目すべきは此処であつて、今の人には文天祥が守りとした位の逸話がなくとも、この位の覚悟があつてよいと思ふ。
 唯、自分の為になる人は多いが、人の為になるやうな人は至つて少い。政府然り、上下両院然り、実業家然りである。誰か一人位人の為に立つ者がないか。

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デジタル版「実験論語処世談」(69) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.623-626
底本の記事タイトル:三七四 竜門雑誌 第四三四号 大正一三年一一月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第434号(竜門社, 1924.11)
初出誌:『実業之世界』第21巻第10号(実業之世界社, 1924.10)