デジタル版「実験論語処世談」(69) / 渋沢栄一

1. 道あるも直、道なくも直

みちあるもちょく、みちなくもちょく

(69)-1

子曰。直哉史魚。邦有道如矢。邦無道如矢。君子哉。蘧伯玉。邦有道則仕。邦無道則可巻而懐之。【衛霊公第十五】
(子曰く。直なるかな史魚。邦道あれば矢の如く、邦道なければ矢の如し。君子なる哉。蘧伯玉。邦道あれば則ち仕へ、邦道なければ則ち巻いて之れを懐にすべし。)
 本章は、衛の二大夫の優劣を評したのである。
 孔子は、衛の大夫の史魚を評して、直なる哉史魚、邦に道ある時も直しきを守ること矢の直なるが如し、邦に道がない時も正しきを守ること矢張り矢の如くである。然るに今一人の蘧伯玉は、邦に道あれば仕へてその道を行ひ、邦に道がなければ歛めて出さない。
 孔子は能くこの二人を知つて居つたので、斯く評したが、史魚は真直な人で、善悪共に一本調子で進んで行つて、何処までも正しきを守り進んだのである。之れに反して蘧伯玉は薀蓄のある人であるから、時によつて多少方面を代へる丈けの余裕のある人である。言はば史魚は道があつてもなくとも真直に進むから、先づ忠直な人と云ふことが出来る。蘧伯玉は邦に道があれば仕へ、道がなければ、鋒鋩を現はさないから、人と争ふやうなこともなかつた。
 併し今はこのやうな種類の人が多いが、一本調子の行動を取ることは正しい。そして蘧伯玉のやうな行動を直すと云ふことにならなければならぬ。之れが実に尊いものと思ふが、併し今はかう云ふ人は稀であると思ふ。蓋し都合のよい時は調子に乗つて進んで行くけれども、悪い時になると直に自己を曲げる。自己の信じて居ることを曲げるやうでは自己がないと思ふ。この自己のあると云ふ人は至つて少いものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(69) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.623-626
底本の記事タイトル:三七四 竜門雑誌 第四三四号 大正一三年一一月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第434号(竜門社, 1924.11)
初出誌:『実業之世界』第21巻第10号(実業之世界社, 1924.10)