5. 藤森弘庵と塩谷宕陰
ふじもりこうあんとしおのやとういん
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それから藤森弘庵といふ儒者も識見の凡ならざる人であつたかのやうに思はれる。然し、弘庵は攘夷論者で、今日から観れば時勢に遅れて居たかのやうに見えぬでも無いが、嘉永六年ペルリの軍艦が押し寄せて来た時に、幕府が其の所置に窮し、貿易を許しても可いものか悪いものかと久く逡巡決し難く、甚だ当惑して居る際に「海防備論」二巻を著し、盛んに攘夷説を鼓吹し一世を風靡したる結果、遂に幕府の大老井伊掃部頭の悪むところとなつて将に重刑に処せられんとした事があるのに徴しても、弘庵が小人の儒で無くつて経世済民を以て念とした君子の儒であつた事を窺ひ得られるだらうと思ふのである。
江戸の芝愛宕下に住んで居つたので号を宕陰と称した塩谷世弘なども、経世済民の志を懐いて居つた立派な君子の儒で、徒に文章を講ずるを以て満足せず、清国に阿片戦争の起つた事を聞くや、日本にも亦近き将来に於て外国人の侵入し来るべきを論じて海防の急務なるを説き、ペルリの来朝するや軍艦を造る便宜の法二十条を幕府に建白し、最後に「隔靴論」を著して幕府の政治に飽き足らぬ点多きを指摘し、恰も靴を隔てて痒きを掻くに似たるものあるを諷したところなぞは、到底尋常腐儒の輩の及びもつかぬ識見である。
私が三島毅先生と御懇意を致すやうに相成つたのは、その初め誰れの御紹介によつたものであるか頓と忘れてしまつたが、私が亡妻の為に建てた石碑の文を同先生に請うて書いて戴いたのが抑々の因縁である。その石碑は今でも谷中寛永寺の地内に建つてるが、その碑文に就ては私と三島先生との間に一条の物語がある。
- デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)