デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一

7. 新井白石は君子儒

あらいはくせきはくんしじゅ

(26)-7

 安井息軒は明治九年になつてから歿した儒者で、明治六年に「論語集説」六巻を著して居るが、維新頃の儒者で博学なる点に於て息軒に及ぶ者は余り無かつたとの評判である。目下、第一高等学校や東洋大学に漢学の教授をして居られる安井小太郎氏は息軒の令孫であるが、息軒は唯博学であつたといふ丈けで或は真正の意味に於ける学者で無かつたかも知れぬ。元田永孚は先帝の恩遇を受けた儒者で、明治の元勲は伊藤、山県などよりも寧ろ元田氏であるとさへ謂ふ人もあるほどだが、単に博学であらせられたのみならず、義に立つて苟くも枉げず道徳を以て天下を治むるを念とせられた君子儒であつたらしく思はれる。
 然し、何んと謂つても我邦で傑出した君子儒は、白石と号した新井君美である。白石は徳川六代の将軍家宣に仕へた人で、その幣制改革に関する功労等に就ては、既に談話したうちにも述べて置いた通りであるが、刑政のことにまでも関係し、米国に行はるるテスト・ケース(試験裁判)のやうな事を実施した例さへある。殊に其著述にかかる「読史余論」の如きは白石に非凡なる識見のあつた事を示すもので、政権が藤原氏に移つてゆく具合を実に能く叙べてある。頼山陽の「日本外史」は全く白石の「読史余論」を祖述したものであると謂つても決して過言で無い。それから維新後になつて初めて書かれた文明史とも観らるべき法学博士田口卯吉(鼎軒)の「日本開化小史」の如き書も、今回縮刷印行せられた同書の巻尾に黒板文学博士が書かれた評言中にもある通りで、白石の「読史余論」より暗示を得て著述せられたものだ。
 白石の「折たく柴の記」は白石が幕府に仕へるやうになつた始末や自分の色々履んだ経歴の如きものを書いたものではあるが、其実、一種の徳川幕府史である。素と漢学の素養の深かつた人でありながら平易な文章を以て自伝に事寄せ徳川の歴史を書いた技倆は、実に驚くべきものである。新井白石の如きが即ち真に経世済民を念とした君子儒と称せらるべき人だらう。
 維新後になつてから現れた洋学の儒者には、什麽も漢学の儒者の如く経世済民を念とする者が無くなつたやうに思はれる。当今の学問は昔に比べれば頗る精細に亘るやうになつて来たから、経世済民のことまで稽へては却て研究が疎かになると謂ふのだらうが、私などの眼から観れば、今日の学者は学者と称せらるべきもので無く、或る特種の技芸に達した技師たるに過ぎぬかの如く思はれる。然し、今日ではこの技師がみな学者を以て目せられ、学者が経世済民の事など稽へては却て害になるとさへ説く者があるほどだが、私は什麽しても斯る意見に同意ができぬのである。苟くも学者といはれるくらゐの人ならば、経世済民の事を稽へ、天下国家の事を思ふべき筈のものだと信ずるのである。

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新井白石, 君子,
デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)