デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一

6. 三島先生との関係

みしませんせいとのかんけい

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 亡妻の千代子は是れまで談話したうちにも申述べて置いた通りで、従兄で且つ私の為には漢学の師匠にあたる尾高惇忠の妹であつたのだが、私の許へ嫁して来たのは私が十九歳で未だ江戸へ出なかつた前の事である。その時千代子は十八歳であつた。これが私の糟糠の妻である。然るに不幸にも明治十五年四十一歳で歿してしまつたので、それから三年目に当る明治十七年頃であつたと思ふが、私は千代子の為に石碑を建ててやらうとの精神を起し、その碑文の起草を三島先生に御依頼する事にしたのである。
 結婚の当時、私は国事の為に東奔西走し横浜異人館の焼打でもしようといふくらゐの意気込みであつたので、妻を顧る遑など素より無く如何に泣き付かれても私は妻の言に一切耳を傾けなかつたものだ。然し、私が家を空けて江戸に出で、それより京都に赴き、仏蘭西へ洋行するやうになつてからの留守中も、妻は能く私に代つて舅に仕へてくれた事を帰朝してから知つた時には、厚く礼を述べて謝しもしたのである。私が特に三島先生の宅を訪れて千代子の為に碑文の起草を御依頼した際には、私の郷里を出た時の模様から、仏蘭西より帰朝した時の模様まで、千代子が如何に私に対して尽してくれたか、これらの一部始終を、残らず先生に物語つたのだ。先生は之を聞かれて、「貴公の談話が其儘立派な碑文に成るから……」と申され、目下寛永寺に建つて居る石碑の文を書いて下されたのだが、私は其の碑文を読んで、甚く感心したのである。平たく謂へばその文が非常に私の気に入つたので、爾来先生と親しくし、先生を尊崇するに至つたのである。私は如何に名文でもその文章に情が籠つて居らぬやうなものは之を好まぬのだが、三島先生が書いて下された千代子の碑文には、私が言はんと欲する心情を遺憾無く言ひ表し、併も其れが千代子を賞める立派な文章になつて居たので、爾来私は先生を崇敬し、先生と愈よ懇親を深くするに至つたのである。三島先生も昨今は御老体になられたので余り御書きにならぬやうだが、私が御懇親を申上げるやうになつた結果、義利合一論とか修身衛生理財合一論とかいふものを公にせられ、遂には前条に談話したうちにも申述べて置いた「題論語算盤図」の一文をさへ御書き下されたのである。

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三島中洲, 関係
デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)