デジタル版「実験論語処世談」[69a](補遺) / 渋沢栄一
2. 己れを責むる厳人を責むる寛
おのれをせむるげんひとをせむるかん
[69a]-2
子曰。躬自厚而薄責於人。則遠怨矣。【衛霊公第十五】
(子曰く、躬自ら厚して薄く人を責むれば、則ち怨みを遠ざく。)
本章は、己れを責むべきを言ふたのである。(子曰く、躬自ら厚して薄く人を責むれば、則ち怨みを遠ざく。)
己れを責むること厚く、完全なることを求めて止まなかったならば、身は益々修まる。又人を責むること薄くして、完全なることを望まないならば、人の怨みを受けることがないものである。
韓退之の「原毀」と云ふ処にも、古の君子は己れを責むるに重くして十分なることを欲するが、人に対しては軽くして満足することを望まない。己れを責むることが重いと修養を怠らない。又人に対しては満足を期しないから、人は善をなすことを楽しむものだ。舜は仁義の士となつたのは、己れを責むることが大で、彼れも人である我も人である、彼の能くする所、我是れを能し得ない事はないと云ふ様に、努力した。又周公は才芸の人であつたのは、己れを責めて我も人である彼も人である、彼れの能くする所我が能くしないことはないと努力して、そして何れも大聖人となつた。我が舜や周公の如くならないのは、我の病であるとなし、己れを責むること重くなければならぬ。それと同時に彼れは人である。そして此の長所がある、から之れを発達させるやうにするがよい。即ち其の一を取つて其の二を責めないやうにして善に進むやうにすべきである。
然るに今日の君子は人を責むるや詳であるが、己を待つに廉である。故に詳なれば人は善を為すことを難しとするに至るが、それに反して廉であると自ら取ること少いものである。己れはまた善がないから之れを善くしやうとするから足るに至るものである。若し衆人を以て其の身を待たずして、聖人を以て人に望むのは己れを尊ぶものでないと述べて居るのは、丁度此の章を敷衍したやうなものである。
又菜根譚にも、「人の悪を攻むるには太だ厳であつてはいかぬ、それを受入れる度合を得なければならない。人を教へるにもその善が余りに高いと遂に行ふことが出来ぬやうになる」と言つて居る。
賢い人でも自分を見るときには寛かになるので、己れの非を知らず己れを責むるに至つて軽くなり勝ちになるが、人の短所は直ちに見付け、責むることも厳になる。阿呆のやうな人でも人の短所は見つけることが出来るものであるから、短所があるからとて直ちに責めると云ふことはいけない。
兎に角人は己れの非を知らず、自分を責めることは少いものであるが、併し冷静に考へて見ると己れに過ちのあることが判るものである。議会などでは能く人を咎め立てをして居るけれども、能く見ると随分自分でも悪いことをやつて居るやうに思はれる。或は文字を書くにしても、人の書いたものは、茲が間違つて居るとか云ふて咎め立てをするが、自分がやつて見ると劫々さうはいかんものである。故に自己を責めることが厳重で、人を責めることが寛かでなければならぬ。そしてそれを行ひ得る出来るのは君子であつて、吾々は心懸ても劫々それが出来ぬので困つて居る。
- デジタル版「実験論語処世談」[69a](補遺) / 渋沢栄一
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底本(初出誌):『実業之世界』第21巻第11号(実業之世界社, 1924.11)p.17-19
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第二百六十三回 自ら厚うして薄く人を責めよ / 子爵渋沢栄一