デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.15

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

1章 幼少年時代
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
天保十一年庚子二月十三日
(1840年)
第1巻 p.1-61(DK010001k)
武蔵国榛沢郡安部領血洗島村ニ生ル。幼名市三郎又栄治郎、幼少時代ノ名乗美雄、後通称ヲ栄一郎名乗ヲ栄一ト改メ、青淵ト号ス。仕官時代一時篤太夫、尋デ篤太郎ト称セシコトアリ。父ハ通称市郎右衛門、名乗美雅、晩香ト号ス。母ハエイ。家ハ世世農ヲ以テ本業トシ、傍ラ養蚕ト製藍トヲ兼ネ営ム。
弘化二年乙巳
(1845年)
第1巻 p.61-92(DK010002k)
栄一幼時ヨリ強健・怜悧ニシテ、剛情ナレドモ、忍耐強ク、天性秩序ヲ重ンジ、父母ニ孝、兄弟ニ友ナリ。是年初メテ父ニ句読ヲ授ケラレ、尋デ従兄尾高惇忠ニ従ヒテ学ヲ修ム。又書法ヲ初メ父ニ、尋デ伯父誠室ニ、武芸ヲ従兄渋沢新三郎ニ学ブ。
嘉永六年癸丑
(1853年)
第1巻 p.92-168(DK010003k)
是年ヨリ家業ヲ助ケ、農耕・養蚕ノホカニ藍葉ノ買入、藍玉ノ製造及ビ販売ニ従事ス。又是年米使ペリーノ渡来ニ刺戟セラレ、栄一ノ胸中攘夷ノ念ヲ萌ス。
安政元年甲寅
(1854年)
第1巻 p.168-173(DK010004k)
叔父保右衛門ニ随ヒテ江戸ニ出デ 書籍箱ト硯箱トヲ購ヒ、帰リテ父ニ其奢侈ヲ誡メラル。
安政二年乙卯
(1855年)
第1巻 p.173-180(DK010005k)
是ヨリ先嘉永六年ヨリ病メル姉ノ看護ニ心ヲ用ヰシガ、是年姉ノ病ニ関スル迷信ヲ打破ス。
2章 青年志士時代
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
安政二・三年乙卯・丙辰
(1855-1856年)
第1巻 p.181-183(DK010006k)
十六・七歳以後従兄渋沢喜作ト共ニ近傍諸村ノ若者頭等ヨリ推サレテ其指揮ニ当ル。
安政三年丙辰
(1856年)
第1巻 p.183-192(DK010007k)
父ニ代リ領主安部摂津守ノ岡部ノ陣屋ニ到リテ、用金ノ命ヲ受ク。代官某倨傲ニシテ、栄一ヲ侮蔑ス。栄一其ノ圧制ヲ痛憤シ、封建ノ弊ニ対シ強烈ナル反感ヲ懐クニ至ル。
安政三・四・五・六年丙辰・丁巳・戊午・巳未
(1856-1859年)
第1巻 p.192-217(DK010008k)
商用ヲ以テ信濃・上野及ビ武蔵秩父地方ヲ巡回スルコト年ニ四回、時ニ従兄尾高新五郎・同長七郎等ト同行シ、多ク詩文ヲ作ル。又江戸ニ遊ビテ詩文アリ。而シテ家ニ在ル時ハ乃チ書ヲ読ミ、剣ヲ学ビ、志士トノ交遊漸ク広シ。
安政五年戌午十二月七日
(1858年)
第1巻 p.217-219(DK010009k)
尾高勝五郎第三女千代子ヲ娶ル。
文久元年辛酉春
(1861年)
第1巻 p.219-224(DK010010k)
江戸ニ出デテ儒者海保漁村ノ門ニ遊ビ、又剣客千葉栄次郎ノ道場ニ出入ス。居ルコト二ケ月余ニシテ帰ル。
文久二年壬戌二月《(?)》
(1862年)
第1巻 p.224-229(DK010011k)
是ヨリ先、従兄尾高長七郎坂下門事件ニ連座セルヲ以テ捕吏ノ検察頗ル厳ナリ。是月下旬栄一長七郎ニ勧メテ、難ヲ信州及ビ京都ニ避ケシム。
文久二年壬戌二月
(1862年)
第1巻 p.229(DK010012k)
長男市太郎生マル、夭ス。
文久三年癸亥八月二十四日
(1863年)
第1巻 p.229-230(DK010013k)
長女宇多子生マル。
文久三年癸亥八月
(1863年)
第1巻 p.230-249(DK010014k)
是年春再ビ江戸ヘ出デ海保塾及ビ千葉塾ニ入ル。居ルコト四ケ月、其間屡々帰郷シテ攘夷ノ事ヲ議シ、七月曩ニ坂下門事件ニ闘死セル河野顕三ノ春雲楼遺稿ヲ刊行ス。是月従兄尾高惇忠・同長七郎・渋沢喜作等ト謀リ、兵ヲ挙ゲテ火ヲ横浜港ニ放チ、外人ヲ鏖殺シ、以テ攘夷ヲ実行セントシ、来ル十一月十二日ノ冬至ヲ期シ先ツ高崎城ヲ攻略シテ之ヲ本拠トスルニ決ス。而シテ此前後武器等ノ準備ヲ為ス。
文久三年癸亥九月十三日
(1863年)
第1巻 p.249-259(DK010015k)
栄一既ニ身ヲ以テ国ニ殉ゼント決意セルヲ以テ是夜父ニ請ヒテ家督ヲ辞セントシ、懇談夜ヲ徹ス。暁ニ至リテ父遂ニ之ヲ允ス。尋イデ翌十四日挙兵準備ノ為メ江戸ニ出デ月余ニシテ帰ル。是日急使ヲ京都ニ遣シテ尾高長七郎ノ帰京ヲ促ス。栄一江戸滞在中偶々一橋家用人平岡円四郎等ノ知遇ヲ受クルニ至レリ。
文久三年癸亥十月二十九日
(1863年)
第1巻 p.259-268(DK010016k)
是ヨリ先是月二十五・六日頃尾高長七郎京都ヨリ帰京ス。是夜長七郎上国ノ形勢ヲ説キテ、挙兵ノ無謀ナル所以ヲ切論ス。栄一等論難大イニ努メタルモ、遂に開悟シ、中止ニ決ス。
文久三年癸亥十一月八日
(1863年)
第1巻 p.268-276(DK010017k)
渋沢喜作ト共ニ伊勢参宮ト称シ嫌疑ヲ避ケテ出郷シ、江戸ヲ経テ一橋家用人平岡円四郎ノ家来ノ名義ヲ以テ京都ニ赴ク。二十五日京都ニ入リ、志士ト交ハリ、歳末伊勢大神宮ニ参拝ス。

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
元治元年甲子二月八日
(1864年)
第1巻 p.277-292(DK010018k)
是ヨリ先、尾高長七郎、栄一及ビ渋沢喜作ノ攘夷計画ヲ記セル書翰ヲ懐中シテ縛ニ就ケル旨ヲ報ジ、栄一等ヲ警ム。栄一喜作ト共ニ苦心焦慮後図ヲ謀ル。平岡円四郎栄一等ヲ救ハントシ推挙セルヲ以テ、栄一喜作ト共ニ一橋家ニ仕フ。栄一ハ是日奥口番・御用談所下役出役ヲ命ゼラレ、尋イデ四月中旬御徒士ニ進ム。
元治元年甲子二月
(1864年)
第1巻 p.292-302(DK010019k)
平岡円四郎ノ密旨ヲ承ケテ大阪ニ赴キ、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵ノ門ニ入ル。四月帰京ス。
元治元年甲子二・三月
(1864年)
第1巻 p.302-307(DK010020k)
西郷隆盛ヲ其旅宿相国寺ニ訪ヒ、豚鍋ノ饗応ヲ受ケテ談論ス。
元治元年甲子五月
(1864年)
第1巻 p.307-324(DK010021k)
渋沢喜作ト共ニ人撰御用ノ為関東ニ下リ、武州・総州及ビ野州ノ一橋領ヲ巡回スルコト百余日、壮士約五十人ヲ募リ、九月之ヲ率ヰテ京都ニ帰ル。
此行江戸ニ於テ尾高長七郎ノ救解ヲ講ジテ成ラズ、又郷里ニ帰省セントシテ果サズ、密ニ父及ビ妻子ニ会セシノミ。
元治元年甲子九月
(1864年)
第1巻 p.324-331(DK010022k)
是ヨリ先、本年六月平岡円四郎暗殺セラル。黒川嘉兵衛之ニ代リテ用人タリ。栄一等ノ帰京スルニ及ビ、嘉兵衛之ヲ遇スルコト円四郎ノ時ノ如シ。
元治元年甲子十二月
(1864年)
第1巻 p.331-335(DK010023k)
筑波挙兵ノ徒武田耕雲斎等、路ヲ北国ニ取リテ京師ニ入ラントス。一橋慶喜鎮撫ノ命ヲ奉ジ、兵ヲ率ヰテ先ヅ大津ニ、更ニ進ンデ海津ニ到ル。栄一渋沢喜作ト共ニ之ニ随フ。
慶応元年乙丑一月十五日
(1865年)
第1巻 p.335-338(DK010024k)
小十人並ニ進ミ、御用談所調方出役ヲ兼ヌ。栄一身ヲ持スルコト謹厳ニシテ、上司ノ深ク信任スル所トナル。
慶応元年乙丑三月
(1856年)
第1巻 p.338-365(DK010025k)
是ヨリ先、二月下旬歩兵取立御用掛ヲ命ゼラル。是月備中・播磨・摂津・和泉四ケ国ニ於ケル一橋領ヲ巡廻シ、兵四百数十名ヲ募集シテ帰ル。此時備中寺戸村ニ阪谷朗廬ヲ訪フ。
慶応元年丑乙四月二十三日
(1865年)
第1巻 p.365(DK010026k)
学問所俗事役兼務ヲ命ゼラル。後八月之ヲ免ゼラル。
慶応元年乙丑八月十九日
(1865年)
第1巻 p.365-368(DK010027k)
是ヨリ先、一橋家ノ財政充実ヲ図ラントシ、三案ヲ建言シテ容レラル。是日勘定組頭並ニ転ジ、御用談所出役ヲ兼ヌ。
慶応元年丑乙秋冬同二年丙寅春
(1865-1866年)
第1巻 p.368-406(DK010028k)
一橋家財政ノ充実ヲ図ランガ為メ、兵庫・大阪・備中・播磨ニ出張シ、年貢米ヲ兵庫ニ直売シ、備中ニ硝石製造所ヲ設立シ、又藩札ヲ発行シテ播州木綿ノ買入ニ便ニス。帰京後其功ニヨリ勘定組頭ニ進メラル。
慶応二年丙寅七、八月
(1866年)
第1巻 p.406-412(DK010029k)
将軍徳川家茂薨ジテ嗣ナシ。幕府一橋慶喜ヲ迎ヘテ将軍ト為サントス。栄一渋沢喜作ト共ニ原市之進ニ就テ其不可ナル所以ヲ切論ス。行ハレズ。
慶応二年丙寅八月十一日
(1866年)
第1巻 p.412-427(DK010030k)
是ヨリ先、一橋慶喜将軍ノ名代トシテ長州ニ出征セントス。栄一従軍ヲ命ゼラレ、是日勘定組頭ヲ以テ御使役ニ兼任シ、御用人手附ヲ仰付ケラル。栄一乃チ手書及ビ懐剣ヲ夫人ニ贈リテ別ヲ告グ。
2章 幕府仕官時代
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
慶応二年丙寅九月七日
(1866年)
第1巻 p.428-435(DK010031k)
幕臣ニ転ジ、陸軍奉行支配調役ト為ル。幾許モナク命ニ依リ書院番士大沢源次郎ヲ逮捕シ、武勇ヲ称揚セラル。然レドモ快々トシテ楽マズ、十一月ニ至リ致仕センコトヲ決意ス。
慶応二年丙寅秋(?)
(1866年)
第1巻 p.435-436(DK010032k)
将軍慶喜ノ命ニ依リ市川斎宮ニ就キ電信ノ技ヲ伝習ス。
慶応二年丙寅十一月二十九日
(1866年)
第1巻 p.436-450(DK010033k)
是ヨリ先、将軍徳川慶喜弟徳川昭武ヲ明年仏国巴里ニ開カルベキ万国博覧会ニ派遣シ、事畢ルノ後昭武ヲ同国ニ留学セシメントス。是日栄一特ニ内命ヲ承ケテ之ニ随行スルニ決ス。尋デ十二月七日俗事ヲ取扱フ可シトノ命ヲ受ケ、同月二十一日班ヲ勘定格ニ進メラル。此時栄一未ダ男子ナカリシヲ以テ義弟平九郎ヲ養嗣子ト定ム。
慶応三年丁卯正月十一日
(1867年)
第1巻 p.450-485(DK010034k)
徳川昭武ニ随ヒ、横浜ヨリ乗船シテ仏国ニ向フ。
上海《シヤンハイ》・香港《ホンコン》・柴棍《サイコン》・新嘉埠《シンガポール》・錫蘭《セイロン》・亜丁《アテン》・蘇士《スエス》・該禄《カイロ》・亜歴散大《アレキサンドリア》・馬塞里《マルセイユ》・黎昂《リヨン》等ヲ経テ、三月七日巴里ニ着シ、カプシンヌ街ノガランドホテルニ館ス。
慶応三年丁卯三月二十四日
(1867年)
第1巻 p.485-489(DK010035k)
徳川昭武、外国奉行向山一履等ヲ随ヘテ仏国皇帝ナポレオン第三世ニ謁ス。栄一陪セザリシモ、仏国皇帝ヘノ献上品ヲ宮中ヘ送致スル事ニ当ル。尋イデ同月二十八日軽気球ヲ観ル。
慶応三年丁卯三月二十九日
(1867年)
第1巻 p.489-491(DK010036k)
徳川昭武、ナポレオン第三世ノ催セル観劇会ニ出席ス。栄一之ニ陪ス。翌四月朔日ミニストル館ニ舞踏ヲ見ルニ陪シ、同月二日アルク・ド・トリヨンフニ登ル。
慶応三年丁卯四月三日
(1867年)
第1巻 p.491-497(DK010037k)
徳川昭武、チユイロリー宮ニ於ケル舞踏ヲ観ル。栄一之ニ陪ス。尋イデ同月十二日シヤルクランノ館舎ニ移転シ、同月十五日大砲器械貯所、同月二十四日巴里市街埋地道ヲ観ルニ陪ス。
慶応三年丁卯五月四日
(1867年)
第1巻 p.497-502(DK010038k)
是ヨリ先、四月晦日ボワデブロンギユノ競馬ヲ観ルニ陪ス。是日ナポレオン第三世、大観兵式ヲ行フ。露国皇帝等ト共ニ徳川昭武モ亦招待セラル。栄一之ニ陪ス。
慶応三年丁卯五月十一日
(1867年)
第1巻 p.502-507(DK010039k)
是ヨリ先、五月七日徳川昭武、仏帝・魯帝・孛王ト共ニヴエルサイユニ遊ブ。栄一之ニ陪ス。是日昭武ニ随ヒ巴里パツシー郷ペルゴレイズ街五十三番ノ家ニ転宿ス。
慶応三年丁卯五月十八日
(1867年)
第1巻 p.507-531(DK010040k)
徳川昭武、万国大博覧会ヲ観ル。栄一之ニ陪ス。五月二十九日・六月二日・同月二十一日・八月三日亦同ジ。其間日本出品ニ関スル批評ヲ調査シ、水道貯水池・ボワデブロンギユ・巴里郊外等ヲ観覧、又ハ遊覧スルニ陪シ、且各国巡遊ノ準備ヲ為ス。
慶応三年丁卯八月六日
(1867年)
第1巻 p.531-537(DK010041k)
徳川昭武、大博覧会ノコト既ニ畢ルヲ以テ締盟各国ヲ歴訪シテ親睦ヲ敦クセンガ為、是日巴里ヲ発シ先ヅ瑞西ニ向フ。栄一モ亦之ニ随フ。発スルニ先ダチ随行員ノ員数ニ付外国掛ト昭武従者トノ間ニ紛争アリシモ、栄一之ヲ調停ス。翌七日ベルンニ抵ル。
慶応三年丁卯八月八日
(1867年)
第1巻 p.537-542(DK010042k)
徳川昭武、瑞西国ベルンニ於テ同国大統領ニ謁ス。居ルコト数日、栄一モ亦、観兵式・武器庫・時計工場・電信機製造所等ヲ観覧スルニ陪ス。
慶応三年丁卯八月二十日
(1867年)
第1巻 p.542-548(DK010043k)
是ヨリ先、八月十六日瑞西ヲ発シテ和蘭ニ赴キ、同月十八日ヘーグニ到着ス。是日徳川昭武ヘーグニ於テ和蘭国王ウイルレム第三世ニ謁ス。居ルコト数日、栄一モ亦、軍艦製造所ノ観覧、シーボルト別荘ニ於ケル清遊等ニ陪ス。一行ノ同国滞在中幕府留学生林研海・伊東玄伯等周旋大イニ勉ム。
慶応三年丁卯八月二十八日
(1867年)
第1巻 p.548-558(DK010044k)
徳川昭武一行前日和蘭国ヨリ白耳義国ニ入ル。是日昭武ブラツセルニ於テ白耳義国王レオポールド第一世ニ謁ス。尋イデ翌二十九日ヨリ陸軍学校・舎密工場・アンベルス礮台・炮車・諸器械・弾丸製造所・リエージユー銃砲製造所・シラアンノ製鉄所・マリートヲワニヱトノ鏡及ビ硝器製造所・地理学校・観兵式等ヲ観覧スルニ陪ス。九月九日再ビ王ニ謁スルヤ、王昭武ニ説キテ曰ク、鉄ハ文明国ノ必需品ニシテ強大国ハ之ヲ用ヰルコト多ク、弱小国ハ之ヲ用ヰルコト少シ、貴国モ亦須ク鉄ノ需要ヲ盛ニスベシ、而シテ之ヲ購フハ宜シク白耳義国ヨリスベシ、ト。栄一側ニ在リテ之ヲ聞キ、泰西ノ俗、王者モ亦商賈ノ顰ニ倣フカト、奇異ノ感ヲ懐ク。
慶応三年丁卯九月二十七日
(1867年)
第1巻 p.558-569(DK010045k)
是ヨリ先、九月十二日白耳義国ヲ発シテ巴里ニ帰着シ、居ルコト八日、同月二十日徳川昭武ニ随ヒ巴里ヲ発シテ伊太利ニ向フ。同月二十四日国都フロレンスニ着シ、翌日ヨリ国王ノ別宮・議事堂・石細工所等ヲ観ルニ陪ス。是日昭武フロレンスニ於テ国王ヴイクトル・エマヌエル第二世ニ謁ス。国王昭武以下ニ勲章ヲ贈ルコト差アリ、栄一モ亦五等勲章ヲ贈ラル。尋イデ十月朔ミラン・同月五日ピサ等ヲ遊覧スルニ陪ス。
慶応三年丁卯十月八日
(1867年)
第1巻 p.569-579(DK010046k)
徳川昭武伊太利リボルノ港ヨリ英国軍艦ニ搭ジテ仏国ニ向フ。十一日マルタ島ニ着シ、居ルコト数日砲台・船渠・製鉄所等ヲ見ルニ陪ス。尋イデ十六日マルタ島ヲ発シ、二十二日マルセーユニ上陸シテ翌日巴里ニ帰着ス。此行艦マルタ島ヲ発スルヤ、機関破損シテ進退ノ自由ヲ失フ。艦長因リテ進止ヲ昭武ニ候ス。昭武栄一ノ言ニ由リテ之ヲ艦長ニ一任ス。艦長乃チ進航スルニ決シ、辛ウジテ帆走シ、マルセーユニ到着スルヲ得タリ。
慶応三年丁卯十一月九日
(1867年)
第1巻 p.579-596(DK010047k)
是ヨリ先、徳川昭武一行十月二十四日ヨリ巴里ニ留マルコト十一日、十一月五日昭武ニ随ヒ巴里ヲ発シテ英国ニ向フ。同七日倫敦ニ着シ、八日議院ヲ観ルニ陪ス。是日昭武、英国女王ヴイクトリヤニウインゾル離宮ニ謁ス。尋イデ十日ヨリタイムス新聞社・図書館・大砲製造所・機械製造所・閲兵式・水晶宮・英蘭銀行・軍艦製造所等ヲ観ルニ陪ス。
慶応三年丁卯十一月二十二日
(1867年)
第1巻 p.596-612(DK010048k)
徳川昭武、前日英国ヲ発シテ、是日巴里ニ帰着ス。是ニ於テ昭武ノ各国礼問ノ事畢リ、是ヨリ専心修学ニ従事ス。栄一公私ノ事務ヲ負荷シテ寸隙ナシ。
明治元年戊辰一月
(1868年)
第1巻 p.612-696(DK010049k)
幕府亘解ノ報相踵イデ到リ、衆皆愕然タリ。尋イデ三月二十一日附朝廷ノ帰朝命令到ル。栄一予メ期スル所アリ。外国奉行栗本安芸守ト謀リ、昭武ノ滞仏留学継続・幕府留学生帰朝ノ件ヲ決シ、其ノ資金ノ調達ニ任ズ。然レドモ七月帰朝ニ決シ、栄一等其準備ヲ為ス。
明治戊辰元年二月十四日
(1868年)
第1巻 p.697(DK010050k)
外国奉行支配調役ヲ命ゼラル。
明治元年戊辰五月二十三日
(1868年)
第1巻 p.697-704(DK010051k)
是ヨリ先官軍東征ス。尾高惇忠・渋沢喜作等徳川氏ノ冤ヲ鳴ラシ、同志ヲ糾合シテ彰義隊ヲ組織シ、江戸東叡山ニ拠リテ之ニ抗セントス。故アリ、幾モナク之ヲ脱シテ別ニ振武軍ヲ組織シ、武州飯能ニ屯ス。栄一ノ義子平九郎亦之ニ加ハル。是日戦敗レ、奔リテ入間郡黒山村ニ到リテ自殺ス。
明治元年戊辰六月
(1868年)
第1巻 p.704(DK010052k)
開成所奉行支配調役ニ任ゼラル。