デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一

3. 理論と実験との併行

りろんとじっけんとのへいこう

(6)-3

子曰。学而不思則罔。思而不学則殆。【為政第二】
(子曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し。)
 茲に掲げた章句は、学理ばかりで事に処せんとしては失敗する、実験ばかり信頼して学理を無視しても同じく亦過失に陥り易いものであるといふのを、孔夫子が戒められたものと思ふ。
 「罔」とは果して如何なる意の文字であるか、無学の私には之を正確に解し得る力も無いが、朱子集註に皇侃の説として、精思せざれば行用(即ち実地の応用)に至つて乖僻す、是れ聖人の道を誣罔するものだ、とある。依て私の愚存を以てして孔夫子の御考を忖度すれば、如何ほどの理論上の学問ばかりしても、之を実地の経験に照らして考察熟思する所が莫ければ結局其の理論を実地に行ひ得ず、所謂論語読みの論語知らずになつてしまふ。さればとて一にも二にも経験々々と経験ばかりを楯にして、学術が教へて呉れる理論を無視するやうでも亦闇の中を提灯無しで歩くのと同じで、甚だ危険なものであるといふのが此章句の意味であらうかと思はれる。「学」の文字が果して当今用ひらるゝ「学術」と同じ意義で、「思」の文字が又果して「観察」と同意義であるや否やは今俄に断言しかねるが、斯く解釈しても然るべきものであらうかと存ずる。人間は兎角一方に偏し易い傾向のあるもの故、理論一点張にも流れず、又経験一点張にもあらず、能く孔夫子の此の戒をお互ひに服膺して、実験により理論の及ばざる所を補ひ理論によつて実験の到らぬ所に達し、実地に臨んで事をするに当り失敗を招かぬやうにしたいものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.677-685
底本の記事タイトル:一九九 竜門雑誌 第三三〇号 大正四年一一月 : 実験論語処世談(六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第330号(竜門社, 1915.11)
初出誌:『実業之世界』第12巻第16号(実業之世界社, 1915.08.15)