デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一

10. 大西郷、私を茅屋に訪はる

だいさいごう、わたしをぼうおくにとわる

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 これも井上侯が総大将を承つて采配を揮り、私や陸奥宗光、芳川顕正、それから明治五年に英国へ公債募集のため洋行するやうになつた吉田清成なぞが、専ら財政改革を行ふに腐心最中の明治四年頃のことであるが、或る日の夕方、当時私が住居した神田猿楽町の茅屋へ、西郷公が突然ヒヨツコリ訪ねて来られた。その頃西郷さんは参議といふもので、廟堂では此上の無い顕官である。それが、私の如き官の低い大蔵大丞ぐらゐの小身者を親しく御訪ねになるなど、既に非凡の人物で無ければ能きぬことで、誠に恐れ入つたものであるが、その御用談向は、相馬藩の興国安民法に就てであつた。
 この興国安民法と申すは、二宮尊徳先生が相馬藩に聘せられた時に案出して遺され、それが相馬藩御繁昌の基になつたといふ、財政やら産業やらに就ての方策である。井上侯始め私共が財政改革を行ふにあたり、この二宮先生の遺された興国安民法をも廃止しようとの議があつた。
 これを聴きつけた相馬藩では、藩の消長に関する由々敷一大事だといふので、富田久助、志賀直道の両人を態〻出京せしめ、両人は西郷参議に面接し、如何に財政改革を行はれるに当つても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬやうにと具に頼み込んだものである。西郷さんは其の頼みを容れられたのだが、大久保さんや大隈さんに話した処で取り上げられさうにもなく、井上侯なんかに話でもしたら、井上侯はあの通りの方ゆゑ到底受付けて呉れさうに思はれず、頭からガミガミ跳ね付けられるのに極つてるので、私を説きつけさへすれば或は廃止にならぬやうに運ぶだらうとでも思はれたものか、富田、志賀の両氏に対する一諾を重んじ、態〻一小官たるに過ぎぬ私を茅屋に訪ねて来られたのであつた。

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キーワード
西郷隆盛, 渋沢栄一, 茅屋, 訪ふ
デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.677-685
底本の記事タイトル:一九九 竜門雑誌 第三三〇号 大正四年一一月 : 実験論語処世談(六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第330号(竜門社, 1915.11)
初出誌:『実業之世界』第12巻第16号(実業之世界社, 1915.08.15)