デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一

8. 大西郷曰く、戦争が足らぬ

だいさいごういわく、せんそうがたらぬ

(6)-8

 私は御裁可を仰ぐべき奏請文案を命により両三回起草して、御議事の間の方々の御覧に入れたが、那的《あゝ》でも無い這的《かう》でもないといふので御気に入らぬ。確か四回目の時だつたと思ふが、後藤象二郎さんが筆を入れて、愈〻略〻之に決する事に相成つた。其日は如何したものか西郷さんが定刻より大層遅れて出仕せられ、御議事の間に見えられたのが夕刻少し前の午後三時頃であつた。西郷公の同意を得ねばならぬからとて、既に決してある文案に同意して印判を捺すようにと他の諸公から申入れたが、西郷公は頗る不得要領の返事ばかりをせられ「日本は維新後まだ戦をする事が足らぬ。もう少し戦を為ぬと可かぬ。そんな事は己れは如何でも可い」と曰はれて、話頭を他に転じてしまはれ、諸公に要領を得させず、如何勧めても、同意して判を捺かうとはせられぬのであつた。
 私も三四回まで稿を改め、漸く御採用になつた文案でもあるのに、今更西郷公が判を捺して下さらぬとなれば折角の苦心も水泡に帰してしまふと思ふものだから、傍で見て居つても気が気でなく、早く西郷公が呍と曰つて判を捺して下されば可いのにと、モヂ〳〵して居つたが、西郷さんは如何しても判を捺かれず、これが為其奏請文案も遂に御流れになつてしまつたのである。

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キーワード
西郷隆盛, 戦争, 足らず
デジタル版「実験論語処世談」(6) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.677-685
底本の記事タイトル:一九九 竜門雑誌 第三三〇号 大正四年一一月 : 実験論語処世談(六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第330号(竜門社, 1915.11)
初出誌:『実業之世界』第12巻第16号(実業之世界社, 1915.08.15)