デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治7年11月
(1874年)
第24巻 p.5-30(DK240001k)
是ヨリ先、明治五年十月十四日、東京府庁ハロシア皇子ノ来朝ニ備ヘ、府下ノ乞丐ヲ駆集メ、ソノ処置ヲ東京営繕会議所ニ諮ル。蓋シ東京営繕会議所ハ旧幕時代ニ於ケル市民共有金ノ管理ニ当リ、旧町会所ノ担当セル市街ノ営繕ト市民ノ賑恤救済事業等ヲ継承セルニ由ル。仍ツテ東京営繕会議所ハ翌十五日、右窮民ヲ本郷加州邸内ニ仮収容シ、更ニ同月十九日浅草溜ニ移ス。ナホ東京営繕会議所ハ同月、東京会議所ト改称セシモ、引続キ此収容所ヲ主管シ、明治六年二月四日、浅草溜ヨリ上野護国院ニ収容者ヲ移シ、爾来養育院ト称ス。
是月栄一、東京会議所共有金取締ニ嘱託サレ、同時ニ当院事務ヲ掌理ス。
明治8年12月21日
(1875年)
第24巻 p.30-50(DK240002k)
是日栄一、東京会議所会頭兼行務科頭取ニ選挙セラレ、引続キ当院事務ヲ主管ス。越エテ翌九年一月、栄一等其ノ行務ヲ府庁ヘ還納センコトヲ図ル。
明治9年5月11日
(1876年)
第24巻 p.50-68(DK240003k)
是日栄一、養育院事務長ニ任命セラレ、引続キ当院事務ヲ主管ス。同月二十五日、東京会議所ハ其養育院行務ヲ府庁ニ還納ス。仍ツテ当院ハ東京府ノ経営スルトコロトナリ、同年六月東京養育院ト改称ス。
明治11年8月
(1878年)
第24巻 p.68-69(DK240004k)
是月栄一、当院窮民課役作興資金トシテ金二百円ヲ寄附ス。
明治12年8月18日
(1879年)
第24巻 p.69-75(DK240005k)
是ヨリ先、当院経費ハ地方税ヲ以テ支弁セラルルコトニナリ、七月事務章程ヲ改正セシガ、是日、従来当院事務長タリシ栄一、改メテ当院院長ト称スルコトトナレリ。
明治12年10月10日
(1879年)
第24巻 p.75-90(DK240006k)
当院ノ所在地上野護国院敷地ハ博物館建設用地トナレルヲ以テ、是日当院、神田区和泉町一番地ニ移転ス。栄一引続キ当院運営ニ尽力ス。
明治13年1月
(1880年)
第24巻 p.90-105(DK240007k)
是月、東京府ノ命ニヨリ東京府養育院条規ヲ輯録シ、印刷配布ス。当院幹事坂本源平輯録シ、栄一之ヲ閲ス。
明治16年1月
(1883年)
第24巻 p.105-108(DK240008k)
是月、当院府下行路病人ノ収容ヲ始ム。栄一、院長トシテ之ニ与ル。
明治18年11月19日
(1885年)
第24巻 p.108-119(DK240009k)
是ヨリ先、明治十五年四月、東京府会ニ於テ養育院処分案議セラレ、明治十八年六月末日限リ地方税支弁廃止トナル。仍ツテ本年二月十日、栄一院長トシテ当院ガ共有金其他ノ基金ニヨリテ経営セラレンコトヲ東京府知事ニ建議ス。是日、東京府知事当院ノ規定ヲ改正シ、栄一外十名ニ委任経営セシム。栄一、委員ノ互選ニヨリ院長トナル。
明治18年12月
(1885年)
第24巻 p.119-126(DK240010k)
是月、当院神田区和泉町ヨリ本所区長岡町四十三番地ニ移転ス。栄一院長トシテ之ニ与ル。
明治19年3月
(1886年)
第24巻 p.126-129(DK240011k)
是月、当院棄児並ニ迷児ノ収容ヲ始ム。栄一院長トシテ之ニ与ル。
明治19年7月3日
(1886年)
第24巻 p.129-157(DK240012k)
是日栄一、当院院長トシテ養育院慈善会設置ニ付キ東京府知事高崎五六ニ上申シ、許サル。仍ツテ翌二十年一月会員募集ニ着手シ、会長ニ府知事夫人高崎鷹子、副会長ニ栄一夫人兼子ヲ推シ、次イデ五月第一回慈善市ヲ鹿鳴館ニ開ク。爾後栄一屡屡其ノ総会並ニ慈善演劇会ニ出席シ、演説ヲナス。
明治22年11月30日
(1889年)
第24巻 p.157-161(DK240013k)
是ヨリ先二十二日、栄一、夫人兼子ト共ニ皇后宮大夫香川敬三ヲ当院ニ迎ヘテ院内ヲ嚮導シ、且ツ沿革及ビ現況ヲ詳述セシガ、是日、皇后陛下ヨリ当院ニ毎年金六百円下賜サル旨宮内省ヨリ示達サル。後、明治三十二年三月下賜金ハ年額二千円ニ増額セラル。
明治23年1月1日
(1890年)
第24巻 p.161-168(DK240014k)
東京市制ノ施行ニ因リ、是日ヨリ当院ハ東京市ノ管理ニ帰シ、東京市養育院ト改称ス。当院事務掌理ノ為メ常設委員設置サレ、栄一、委員長ヲ命ゼラル。
明治28年12月7日
(1895年)
第24巻 p.168-170(DK240015k)
是日栄一、当院委員長トシテ、当院収容者中ノ罹病者看護ノ為メ東京帝国大学医科大学派出医員ニ嘱託シテ、看護人ヲ養成センコトヲ東京府知事三浦安ニ上申ス。十六日許サル。
明治29年3月31日
(1896年)
第24巻 p.170-176(DK240016k)
本所長岡町ノ当院設備ハ狭隘トナレルヲ以テ、移転ノ儀起リ、明治二十六年三月十三日大塚辻町ニ敷地ヲ購入ス。同二十七年一日二十五日 皇后陛下ヨリ移転新築費トシテ金二千円ヲ賜フ。同二十九年三月新築成リ、是日移転ス。栄一、当院委員長トシテ尽力ス。
明治33年7月22日
(1900年)
第24巻 p.176(DK240017k)
当院構内ニ感化部落成シ、是日、開院式ヲ行フ。栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。同三十八年十月二十九日同感化部ハ府下北多摩郡武蔵野村字吉祥寺井之頭御殿山御料地ニ新築移転シ、東京市養育院感化部井之頭学校ト改称ス。
明治33年7月24日
(1900年)
第24巻 p.177-180(DK240018k)
是日栄一、当院委員長トシテ、収容中ノ虚弱児童ノ為ニ千葉県安房郡勝山町ニ海浜療養所ヲ設置センコトヲ東京市長松田秀雄ニ建議ス。二十六日許可セラル。
明治34年5月28日
(1901年)
第24巻 p.180(DK240019k)
是日栄一、イギリスノ評論雑誌レビユウ・オブ・レビユウズThe Review of Reviews記者アルフレド・ステドAlfred Stead並ニ同夫人ヲ案内シテ当院ヲ参観セシム。
明治34年6月14日
(1901年)
第24巻 p.180-185(DK240020k)
是ヨリ先、栄一東京市参事会員再選ヲ辞退シ、当院委員長ノ資格自ラ消滅セシガ、是日、更ニ東京市長ヨリ当院院長ヲ嘱託セラル。
明治34年10月7日
(1901年)
第24巻 p.185(DK240021k)
是日栄一、アメリカ合衆国基督教青年会幹事ヂヨン・モト博士John R.Mottヲ案内シテ当院ヲ参観セシメ、且ツ其質問ニ答ヘテ日本ノ青年ニ関スル感想ヲ述ブ。
明治37年2月17日
(1904年)
第24巻 p.185(DK240022k)
是日栄一、当院院長トシテ当院収容者中ノ癩患者ニツキ収容所増築ノ件ヲ東京市長尾崎行雄ニ上申ス。聴カレズ。仍ツテ一時患者ノ一部ヲ目黒慰癈園ニ依托ス。爾後栄一当院幹事安達憲忠・医員光田健輔等ト謀リテ癩患者隔離所設置ニ尽力ス。明治四十年癩予防法公布サレ、四十二年十月第一区府県立全生病院開院ニ当リテ当院収容者中ノ癩患者悉クヲ同病院ニ移管セシム。
明治39年6月
(1906年)
第24巻 p.186-195(DK240023k)
是月、当院院資増殖ノ目的ヲ以テ市参事会員・市長・当院常設委員・院長及ビ感化部顧問等ノ発起ニヨリ、東京市養育院資増殖会設立サレ、栄一、会長ニ就任ス。
明治41年3月20日
(1908年)
第24巻 p.196-199(DK240024k)
栄一引続キ当院運営ニ尽力シ来リシガ、是日、当院院資増殖会会長トシテ、東京市長・助役・常設委員・各区長及ビ新ニ嘱托セル各区委員等ヲ銀行集会所ニ招待シテ晩餐会ヲ催シ、席上演説ヲナス。次イデ五月十三日、松平定信ノ忌日ニ際シ、当院内ニソノ遺物ヲ奠シテ祀ル。
明治41年6月15日
(1908年)
第24巻 p.199(DK240025k)
是日栄一、フランスノ伯爵夫人ベアルンヲ案内シテ当院ヲ参観セシム。
明治41年12月27日
(1908年)
第24巻 p.199(DK240026k)
是日栄一、フランスノ実業家アルベール・カーンヲ案内シテ当院ヲ参観セシム。
明治42年3月31日
(1909年)
第24巻 p.199-202(DK240027k)
是日、東京市ハ本所区若宮町ノ無料宿泊所ヘ当院所属ノ建物ヲ下附シ、併セテ当院経済ヨリ補助金ヲ支給ス。栄一、院長トシテ之ニ与ル。
明治42年5月16日
(1909年)
第24巻 p.203-215(DK240028k)
千葉県安房郡船形町ノ当院安房分院落成セルニヨリ、勝山町ノ臨海保養所ヲ此処ニ移シ、是日、開院式ヲ行フ。栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。
明治42年6月5日
(1909年)
第24巻 p.215-232(DK240029k)
是ヨリ先明治四十一年七月九日、栄一、当院院長トシテ児童収容所ヲ別置センコトヲ東京市長尾崎行雄ニ上申セシガ、是日、当院巣鴨分院成リソノ開院式ヲ行フ。栄一之ニ出席シテ演説ヲ為ス。
2款 福田会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治12年1月26日
(1879年)
第24巻 p.233-245(DK240030k)
是ヨリ先、諸宗教導職相会盟シテ福田会ヲ興シ育児院ヲ設立セントシ、是月十七日東京府庁ニ上申、同二十一日許サル。是日栄一、当会会計監督ヲ嘱託サル。
明治13年1月30日
(1880年)
第24巻 p.245-248(DK240031k)
是日、兜町第一国立銀行ニ於テ当会第一回総会催サル。栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。
明治32年1月
(1899年)
第24巻 p.248-256(DK240032k)
是月、当会ハ社団法人ノ認可ヲ得、役員ノ改選ヲ行フ。栄一、名誉顧問トナル。
3款 東京盲唖学校
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治32年4月10日
(1899年)
第24巻 p.257-269(DK240033k)
栄一、従来ヨリ当校ノ為メ尽力スル所アリシガ、是日、第十一回卒業式ニ出席ス。尚、第十七回・第十八回卒業式ニモ出席セリ。
4款 岡山孤児院
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治32年5月14日
(1899年)
第24巻 p.270-288(DK240034k)
岡山孤児院院長石井十次、孤児音楽隊ヲ率ヰテ上京ス。是日栄一、其ノ一行ヲ兜町ノ邸ニ招キ、幻灯会ヲ催ス。
5款 四恩瓜生会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治32年6月
(1899年)
第24巻 p.289-292(DK240035k)
是月、故瓜生岩子ノ生前ノ徳ヲ記念シ、慈善矯風ヲ目的トセル瓜生会、東京養育院内ニ創立サル。同年十月、当会ハ四恩会ト合併シテ四恩瓜生会ト改称ス。
明治34年4月19日
(1901年)
第24巻 p.292-298(DK240036k)
是ヨリ先、明治三十二年二月土方亀子等ノ発起ニヨリ、故瓜生岩子銅像建設ノ儀起リ、翌三十三年一月委員ヲ選定シ、栄一其委員長ト為ル。是日、浅草公園ニ於テ銅像建設除幕式行ハレ、栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。
明治35年11月23日
(1902年)
第24巻 p.298-300(DK240037k)
是日、王子飛鳥山邸ニ於テ当会秋季大会催サル。栄一、一場ノ演説ヲ為ス。
明治41年4月19日
(1908年)
第24巻 p.300-301(DK240038k)
是ヨリ先明治四十年、当会ハ小石川区大塚坂下町百三十四番地ニ会堂ヲ建設シ、養育院内ヨリ移転ス。是日、会堂開成式催サレ、栄一之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。
6款 東京出獄人保護所
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治32年10月31日
(1899年)
第24巻 p.302-316(DK240039k)
原胤昭、明治十六年監獄改良及ビ釈放者保護ノ事業ニ着手シ、同三十年一月神田区南神保町ニ東京出獄人保護所ヲ設置ス。是日栄一、原胤昭等ト会見シ爾後大ニ尽力ス。同三十五年協議員ニ就任ス。
7款 横浜監獄小田原分監
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治39年3月3日
(1906年)
第24巻 p.317-318(DK240040k)
是日、横浜監獄小田原分監ノ落成及ビ開庁式行ハル。栄一、田中太郎ニ托シ、祝辞ヲ送ル。
8款 函館慈恵院
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治41年8月13日
(1908年)
第24巻 p.319-320(DK240041k)
是日栄一、北海道旅行ノ途次、函館慈恵院ニ至リ、院内ヲ参観シ、収容児童ニ一場ノ訓諭ヲ為ス。
9款 中央慈善協会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治41年10月7日
(1908年)
第24巻 p.321-337(DK240042k)
内外慈善救済事業ノ統制ヲ図リ中央慈善協会設立サレ、栄一、会長ニ就任ス。是日、麹町区飯田町五丁目国学院大学講堂ニ於テ発会式ヲ行ヒ、栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。
2節 感化事業
1款 東京感化院慈善会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治22年5月
(1889年)
第24巻 p.338-342(DK240043k)
是月、東京感化院後援ノ目的ヲ以テ東京感化院慈善会組織サル。栄一其会計監督ニ就任シ、同三十七年十月辞ス。
2款 東京市養育院感化部井之頭学校
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治33年7月22日
(1900年)
第24巻 p.343-382(DK240044k)
是ヨリ先明治三十年一月、英照皇太后崩御ニ際シ東京市養育院ヘノ御下賜金ヲ基金トシ、同年十月院内ニ感化部ヲ設置スルニ決ス。翌三十一年二月、三好退蔵ヲ顧問ニ嘱託ス。同三十三年二月、感化部ノ建築竣工シ、是日、開始式ヲ行フ。栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。
明治38年10月29日
(1905年)
第24巻 p.382-400(DK240045k)
感化部開始以来一ケ年余ノ経験ニヨリ、感化部ノ移転議セラレ、明治三十六年一月府下北多摩郡武蔵野村字吉祥寺井之頭御殿山御料地ヲ拝借シ、同三十八年三月新築成リ、九月二十二日移転ス。東京市養育院感化部井之頭学校ト改称シ、是日、開校式ヲ行フ。栄一之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。
明治39年4月1日
(1906年)
第24巻 p.400-403(DK240046k)
是日、東京府ニ感化法実施サレ、当校ハ東京府代用感化院ニ指定サル。
明治39年4月17日
(1906年)
第24巻 p.403-404(DK240047k)
是日栄一、当校卒業証書授与式ニ出席シ、一場ノ訓話ヲ為ス。翌四十年ニモ出席ス。
3款 第一回感化救済事業講習会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治41年9月24日
(1908年)
第24巻 p.405-413(DK240048k)
感化事業従事員養成ノ為メ、九月一日ヨリ十月七日迄、内務省内ニ於テ同省主催第一回感化救済事業講習会開催サル。是日栄一、之ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス。
3節 保健団体及ビ医療施設
1款 東京地方衛生会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治12年8月2日
(1879年)
第24巻 p.414-422(DK240049k)
是年、東京府下ニコレラ病発生シ猖獗ヲ極メ、是日、中央衛生会ノ決議ニ依リ、日本橋区蠣殻町二丁目七番地ニ東京地方衛生会、臨時開設サル。栄一、幹事ニ就任シ、予防費ヲ寄附シタルホカ尽力スルトコロアリ。同年十月十日当会ハ所期ノ目的ヲ達シ閉会ス。
2款 博愛社(日本赤十字社)
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治13年1月17日
(1880年)
第24巻 p.423-436(DK240050k)
是ヨリ先明治十年五月西南戦争ノ際、佐野常民・大給恒等ノ主唱ニヨリ、戦地ノ傷病者ヲ彼我ノ別ナク救護スル目的ヲ以テ博愛社創立サル。是日栄一、当社社員ト為リ、同五月二十四日同議員ニ選挙サレシガ、之ヲ辞ス。
明治19年10月30日
(1886年)
第24巻 p.436-437(DK240051k)
麹町区飯田町ニ新築中ナリシ当社病院稍々落成セシヲ以テ、是日、同所新事務所ニ於テ第二回社員総会催サレ、栄一、議員ニ選任サル。
明治26年6月17日
(1893年)
第24巻 p.437-443(DK240052k)
是ヨリ先明治十九年、我政府万国赤十字ニ関スル「ヂユネーブ条約」ニ加盟スルニ及ビ、当社ハ事業ヲ拡張シ、翌二十年日本赤十字社ト改称ス。是日、上野公園元第三回内国博覧会会場第五号館ニ於テ当社第七回総会催サレ、栄一、常議員ニ就任ス。明治三十七年十一月之ヲ辞ス。
明治31年10月28日
(1898年)
第24巻 p.443-445(DK240053k)
是日栄一、金千円ヲ当社ニ寄附シ、佩有功章特別社員ニ推薦サル。
3款 社団法人同愛社
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治17年3月25日
(1884年)
第24巻 p.446-454(DK240054k)
是ヨリ先明治十二年三月、高松凌雲外十三名発起人ト為リ、施薬救療ヲ目的トシ、同愛社設立サル。是日栄一、当社慈恵社員幹事トナリ、同二十三年四月之ヲ辞ス。
明治23年5月
(1890年)
第24巻 p.454-455(DK240055k)
是月、栄一当社協議委員ト為リ、明治二十五年九月之ヲ辞ス。
明治27年4月
(1894年)
第24巻 p.456(DK240056k)
是月栄一、当社優待社員ニ選バル。
明治39年8月
(1906年)
第24巻 p.456-462(DK240057k)
是ヨリ先明治三十一年十一月、当社ハ社団法人ノ認可ヲ受ク。是月、当社拡張ノ儀起リ、栄一、賛成員ト為ル。
4款 第一区府県立全生病院
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治37年2月17日
(1904年)
第24巻 p.463-515(DK240058k)
是ヨリ先、明治三十五・六年頃ヨリ東京市養育院収容者中ニ癩患者漸次増加シ、是日栄一、同院院長トシテ東京市長尾崎行雄ニ同患者収容所増築ノ件ヲ上申ス。爾後、栄一同院幹事安達憲忠・医員光田健輔等ト謀リテ癩患者隔離所設置ニ尽力シ、大隈重信・山根正次・島田三郎等ノ援助ヲ得テ、明治四十年遂ニ法律第十一号ノ公布ヲ見、四十二年十月全生病院開院ニ当リ、同院収容患者ヲ悉ク移スヲ得タリ。
5款 熊本回春病院
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治38年11月6日
(1905年)
第24巻 p.516-523(DK240059k)
イギリス人リデル嬢ノ経営セル熊本回春病院後援ノタメ、是日栄一、大隈重信ト共ニ関係者ヲ坂本町銀行倶楽部ニ招ク。大隈重信病気ノタメ来会ナキヲ以テ、栄一代ツテ演説ス。
明治39年5月14日
(1906年)
第24巻 p.523-535(DK240060k)
是日栄一、当病院ヘ寄附金醵集ノタメ、東京銀行集会所ニ催サレタル協議会ニ出席シ、其ノ趣旨ヲ述ブ。
6款 社団法人東京慈恵会
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治40年4月18日
(1907年)
第24巻 p.536-543(DK240061k)
是ヨリ先栄一、東京慈恵医院幹事長有栖川宮威仁親王妃慰子殿下ヨリ、同医院拡張ノ資金募集ニ付キ特ニ御依頼ヲ蒙リ、是日、其相談役兼委員長ト為ル。
明治40年4月22日
(1907年)
第24巻 p.543-544(DK240062k)
拡張後ノ東京慈恵医院ヲ社団法人トナスニ付キ、穂積陳重ニ定款草案ノ執筆ヲ依頼ス。是日栄一、幹事長殿下ヨリ右依頼ノ命ヲ受ク。
明治40年5月20日
(1907年)
第24巻 p.544-552(DK240063k)
是日東京慈恵医院総会開催セラレ、改正定款ヲ可決ス。午後二時、皇后陛下行啓アリ、令旨ヲ賜ヒ、式後更ニ芝離宮ニ於テ会員一同ニ茶菓ヲ賜フ。栄一、夫人兼子ト共ニ奉迎ス。
明治40年7月22日
(1907年)
第24巻 p.552-562(DK240064k)
是ヨリ先十一日、東京慈恵医院ハソノ組織ヲ改メ、社団法人東京慈恵会ノ設立ヲ申請シ、十九日許可セラル。是日栄一、理事・副会長ノ辞令ヲ受ケ、爾後理事会・評議会ニ屡々出席シ、財務主任トシテ尽力ス。尚、当会ノ資金募集額ハ四十一年三月末、三十三万余円ニ達シ、栄一モ亦金一万円ヲ寄附セリ。
明治41年10月12日
(1908年)
第24巻 p.562-564(DK240065k)
是日、皇后陛下ノ行啓ヲ仰ギテ当会総会ヲ開ク。栄一、御前ニ於テ会計報告ヲナス。
4節 災害救恤
1款 火災救恤
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治5年2月
(1872年)
第24巻 p.565-566(DK240066k)
是月和田倉門内ヨリ失火アリ、栄一、罹災者ヘ金百円賑恤ス。
明治10年4月1日
(1877年)
第24巻 p.566-567(DK240067k)
是日深川区富吉町ニ出火アリ、栄一、救恤金百円ヲ寄ス。
明治14年1月
(1881年)
第24巻 p.567-569(DK240068k)
是月、神田・日本橋・本所・深川ノ四区ニ跨リ大火アリ、栄一、罹災者ヘ金百円賑恤ス。
明治19年4月4日
(1886年)
第24巻 p.569-571(DK240069k)
是日深川区相川町ニ出火アリ、栄一、金二百円ヲ罹災者ヘ寄ス。
明治40年8月
(1907年)
第24巻 p.571-572(DK240070k)
是月ノ函館区火災及ビ東京府外一府五県ノ水害ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金二百円賑恤ス。
2款 水害救恤
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明治18年6月
(1885年)
第24巻 p.573-574(DK240071k)
是月及ビ同二十三年七月・同三十年夏、埼玉県大里郡八基村ニ利根川出水ニヨル水害アリ。栄一、各回トモ金品ヲ送リ之ガ救済ヲ為ス。
明治18年8月
(1885年)
第24巻 p.574-578(DK240072k)
是月栄一、大阪府下洪水ニ際シ、罹災者ヘ金百円賑恤ス。
明治29年9月
(1896年)
第24巻 p.578-588(DK240073k)
是月、東京府下ノ出水ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金二百円賑恤ス。
明治31年10月22日
(1898年)
第24巻 p.588-593(DK240074k)
是年九月、北海道地方ノ水害甚シ。是日栄一、豊川良平・大倉喜八郎等ト共ニ発起人ト為リ、義捐金募集ニ尽力ス。
明治40年8月
(1907年)
第24巻 p.593-597(DK240075k)
是月ノ函館区火災及ビ東京府外一府五県ノ水害ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金二百円賑恤ス。
明治40年8月
(1907年)
第24巻 p.597-599(DK240076k)
是月ノ水害ニ際シ、栄一、深川区内罹災窮民ヘ金二百円賑恤ス。
明治40年9月
(1907年)
第24巻 p.599-602(DK240077k)
是ヨリ先八月下旬、関東地方水害ニ襲ハレ、埼玉県下惨状最モ甚シ。是月栄一、同県出身ノ有志者ト謀リ、埼玉水害罹災救済会ヲ設ケ、自ラ金千五百円ヲ寄附ス。
3款 震災救恤
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明治24年10月
(1891年)
第24巻 p.603-604(DK240078k)
是月ノ愛知・岐阜両県下震災ニ際シ、栄一、罹災者救助費トシテ金百円ヲ、更ニ九鬼紋七外二名ト共同シ金六十三円余、又矢島作郎外一名ト共同シ金三十一円ヲ賑恤ス。
4款 凶作救恤
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明治35年
(1902年)
第24巻 p.605-608(DK240079k)
是年ノ青森県外四県ノ凶作ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金三百円賑恤ス。
明治38年
(1905年)
第24巻 p.608-610(DK240080k)
是年ノ宮城県外二県ノ凶作ニ際シ、栄一、罹災者ヘ金千円賑恤ス。
5款 防疫救恤
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明治15年7月
(1882年)
第24巻 p.611-612(DK240081k)
是月ヨリ明治二十二年六月ニ至ル間、栄一、有志者ト協力シ、深川区貧民患者施療費トシテ、金二百八十四円ヲ寄附ス。
明治19年
(1886年)
第24巻 p.612-617(DK240082k)
是年、コレラ病流行ニ際シ、栄一、東京日本橋区ヘ予防費金百円寄附ス。
6款 遭難救恤
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明治33年12月
(1900年)
第24巻 p.618-636(DK240083k)
是ヨリ先十一月中旬、伊豆列島東方ニ於テ遭難沈没セル、商船学校練習船月島丸ノ乗組員及ビ其遺族ノ弔祭慰藉ノ目的ヲ以テ、是月、月島丸遭難弔慰会設立サル。栄一、伊東祐亨・岩崎久弥・三井元之助・加藤正義・浅野総一郎等十四名ト共ニ其発起人ト為リ、義捐金募集ニ尽力ス。
7款 貧民救恤
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明治13年12月
(1880年)
第24巻 p.637(DK240084k)
是月栄一、深川区内無告ノ貧民ヘ金百円施与ス。
明治23年6月
(1890年)
第24巻 p.637(DK240085k)
是月栄一、米価騰貴ニ際シ深川区内細民救助ニ尽力ス。